幸福の国のアリス【短編小説】
孔雀緑の森、紅茶の香りに誘われて進めば、開けた場所が見えてきました。テーブルがあり、お茶会の準備はすっかり済まされています。
「やあアリス! お茶会の準備はすっかりできているよ!」
へんてこな帽子を被った男が一人。
「……あなた、一体誰?」
少女は警戒心を隠しません。
「それに私、アリスじゃないわ」
「いいや君はアリス。そして私は帽子屋」
帽子屋はアリスの背を押し、テーブルへ。アリスはされるがまま、椅子に座ってしまいました。帽子屋なんて、とっても怪しい、見知らぬ男であるのに。
「さあアリス! 『いましかない国』にようこそ!」
「だから私、アリスじゃないって」
出された紅茶だって、怪しすぎます。何が入っているのでしょう。毒? ゴミ? 髪の毛? 虫に消しゴムのカス――。
「私は――」
「『アリス』でいいんだよ。ここは『あちら』じゃない。だから君も■■■■じゃない」
帽子屋の言葉に、アリスはきゅっと口を閉じてしまいました。
美しい黄昏色の紅茶に映るのは、アリスの戸惑った顔。そんな彼女の前に、帽子屋はさあさあさあと、お菓子を並べていきます。
「クッキーにチョコ! それからマカロン! そして……アップルパイ!」
ぽんと置かれたのは林檎の香りのするパイ一ホール。切れ目もまだ入っていません。なんだか夢のよう。
「全部君のものだよ!」
「こんなに食べられないわ」
アリスはそう言ったものの、目の前には、プレゼントボックスが沢山並んでいるかのよう。だから、ようやくナイフとフォークを握って、アップルパイをサクっと。
琥珀やトパーズを思わせる林檎の黄色が、アリスに挨拶をしてくれます。
「……私、こんなにおいしいもの食べたの、初めてかも」
「これからは、好きな時に、好きなだけ食べていいんだ!」
かちこちかちこち。帽子屋の持つ時計は、壊れてもいないのにどの針も動きません。
気付けばアリスは、泣きながらアップルパイを食べていました。
気付けば帽子屋の紅茶は六杯目。
「こんなに食べて、怒られない?」
半分食べたところで、アリスが尋ねます。
「怒られないよ。ここには、君を怒鳴る人はいないよ」
『いましかない国』に、昼も夜もありません。
あるのは「いま」だけ。昨日のこと、明日のこと、考える必要はありません。
帽子屋はアリスをクロッケーに誘います。
「人は嫌いなの」
そう言ったアリスの前に現れたのは、二足歩行の動物達。兎に鼠、猫に蜥蜴。手にするのはフラミンゴ。兎が言います。
「これがクロッケーの道具だよ、ハリネズミをゴールにいれてね!」
「ハリネズミにフラミンゴ? こういうのは……ボールや、バット? とか使うんじゃないかしら?」
アリスが眉を顰めれば、動物達はいやいやと、
「バットは誰かを殴るものだよ!」
「ボールだって誰かにぶつけるもの!」
フラミンゴやハリネズミもうんうんと。
アリスはびっくりしてしまいましたが。
「……そうね。そう。バットにボールなんて。殴られたら痛いし、ぶつけられても痛いもの」
動物達はわあわあ賛成。そうして楽しいクロッケーを、満足するまで行いました。
「こんなに楽しかったのは初めてかも!」
最初は難しい顔をしていたアリスも、いまはにこにこ。
「アリス、また遊ぼうね!」
動物達のその言葉に。
「……また遊んでくれるの?」
「もちろん、友達だもの!」
朝も夜もない世界で、一体どれくらい過ごしたでしょうか。
ある時はペンキで薔薇を塗ったり。
ある時は兎を追いかけたり。
ある時は裁判ごっこしたり。
かと思えばクロッケー。かと思えばお茶会。
眠くなったのなら、帽子屋の家ですやすや。
楽しい時間に終わりはありませんが、どうしても眠くなってしまいますから。
最近は、ここに来た時よりも、長く眠ってしまう気もします。
それでもアリスは、幸せいっぱいでした。眠る時は、帽子屋がそばで見守ってくれます。変な子守歌も、いまではお気に入り。
「ずっとこのままがいい」
ある時アリスは、ゆっくり眠りに落ちる中で。
「私、ずっと『アリス』でいいの? ■■■■じゃなくていい?」
「君はアリスでいいんだよ」
帽子屋がそっと頭を撫でれば、アリスはふわりと微笑んで、そのまま眠ってしまいました。
アリスの寝顔は、幸せいっぱいの少女、そのものです。
――かつて、クラスメイトにいじめられ、家でも家族に虐げられた様子は、どこにもありません。
「飛び降りてきた女の子なんだもの。落ちて来た女の子なら『アリス』と呼ぶべきだろう?」
■■■■には聞こえません。
けれども閉じた目元をよく見れば、涙が輝いていましたから。
帽子屋はそっと涙を指で拭って立ち上がります。
彼女のための、幸福のパイを焼くために。
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