救急搬送 2017/09/13
朝の通勤電車をあとにして仕事場に入って診療し始めてから30分ほど経った頃だったように記憶しているのだが、慣れない番号から電話がかかってきた。自宅近辺で仕事をしてるはずの妻からである。妻は滅多なことでは電話や連絡などしてこずに大抵のことは自分で判断してタスクやアクシデントの対応をこなしてしまうのでいつも有り難く思っているのだが、だからこそ電話が掛かってきたことに胸がざわついたように違和感を感じたのだろう。
「お母さんが倒れたってフラダンス教室の方から連絡があって救急車で搬送する予定らしいんやけどアナタすぐに来れないから私が対応した方がいいやんな?どうしたらいいやろ?」
母親は倒れる前までは元気に週2〜3回のペースでフラダンス教室でダンスを習っていた。何もしなかったら身体は弱るしボケるし旦那(=僕にとっての父親)が肺癌で3年前に亡くなってからというものの僕と週に1〜2回一緒に食事するとか遊びに行く以外に暇を持て余すので、ということで老人会みたいな寄合いには興味を持てずに比較的若い女性が参加されるフラダンス教室に通っていたのである。周りの生徒の平均年齢は40〜50前後といったところだろうか、中には母親に近い年齢の70齢の方も散見されたように記憶している。
以前までは近隣の徒歩5分くらいの近場の教室で練習されていたらしいのだがその教室が施設されていた建造物自体が取り壊しになるという予定があり教室の場所がバス移動を要するところに仮設されていたのでこの倒れた日の朝もバスに乗って移動したのだろう。練習場に到着して練習する前にあたって着替えをして準備運動という時間で少し目眩みたいなものを感じて気分が悪いので更衣室で少し休んできても構わないかな?と、フラダンス教室の講師に訊いて更衣室に移動して長椅子に横たわって休もうとした時に少し吐き気を催し嘔吐した。この時点ではそれほどの外見上の異変はなく本当に気分が悪いだけかな?と、講師と数名の生徒さんも思っておられたらしく少し横にさせて寝させておいた方がいいだろう、と判断されて数分後にまた激しく嘔吐し本人が言うには今日は相当気分が悪いので悪いけど早退しても構わないかな、自分で帰れるから、という類いことを言葉として発してるのは判断できるけれども相当に呂律もあやふやで不安定になり帰ろうとする足取りも歩けないほどの状況になっていたので非常に危ない状態だと講師と生徒さんが判断して救急車要請して頂けたのである。わずか10〜15分くらいの間のことであろうか。救急車もほどなく到着する。
地域は大阪北摂部である。救急車到着後に搬送先で可能なところ、できる限り近いという判断で千里中央にある関西メディカル病院にまず搬送される。状況確認、診断、CT撮影と進めてCT画像によって小脳と脳幹の間にかなりの大きさの脳内出血が認められる。ただ、確認された大きさと場所の関係で搬送先の関西メディカル病院では手術不可能と判断され、高次医療病院への転送という判断になり国立循環器病研究センターで対応可能ということの連絡を受けて即時に転送される。到着を前後して心肺停止状態に陥るものの、救急蘇生にて手術待機の状態となる。ちなみに関西メディカル病院に搬送された時点で妻が同行してくれている。心肺機能の問題などもあって手術にあたっては時間の猶予がないということと、手術野へのアプローチが難しい難症例であるということ、出血範囲が想像以上に大きいこと、年齢的に71歳ということも鑑みて手術途中でインオペになる可能性も非常に高いということを了承してくださるサインがないと手術できないということで妻がサインの対応を済ませておいてくれた次第である。
「そんなんゴチャゴチャ言われても手術せーへんかったら絶対アカンねんからアカンはアカンにしろ手術しなしゃーないやん!だからもうサインしておいたで。」
心強いものである。
消去法で結果を出すとそれしか我々には選択肢がないのだから仕方のないことで判断しなければならないのであるが医療を提供する側がここまで先回り先回りして「もし万が一のときのために」と苦心して二重三重に身構えないと医療が成り立たないという現状にまず驚かされる。訴えない人もいるとしたら、何かの問題ですぐに訴えにでる人も多いというのが現実なのだろう。そういうことで徐々に社会が煩雑に生き辛くなってきて狭く窮屈なものに変質してきている。責任の所在の確定によって人間は拠り所を明確にさせ安心を得たい生き物になってきているということだろう。ただそれは自分の首を自分で締め付けていっている社会状況だと思うのだけれども一旦その歯車が回りだすと止めることはできない。
急いで仕事を切り上げて国立循環器病研究センターに向かい、昼の12時前に到着する。
妹も連絡を受けて駆けつけてくる。
救急搬送待合室でお待ちくださいと言われ待っているものの時間の経過が非常に長く感じられる。日差しはきつく、秋晴れで気持ちのいい風が吹いていたように記憶している。暑い。嫌な汗が滴り落ちる。
妻と3人が揃ったところで手術の説明を受け様々な書類にサインし続ける。
説明や承諾の一通りが終わると妻は一旦自宅に帰るという。
「何か用事があれば連絡くれたらできることやったら動くから何でも言うて。子供たちも待ってるし家のこともせなあかんから先に帰るわ。」
「今日はほんまありがとうな。」
出た言葉はこれだけだったような気がする。
もっと気の利いたことを言えたらよかったのに、と後になってつくづく思う。
一日中駆けずり回ってくれた妻には感謝しかない。
そしてその様々な行動に大変さを滲ませないところが凄いとつくづく思わされる。
手術はおそらく長時間になるので夕方の6〜7時前に終わるということはないと伝えられており、昼飯もまだ済ませてなかったので病院地下階に在する食堂で僕は醤油ラーメンを、妹はざるそばを食べる。14時を大きく回っており食堂はガランと空いていて小児患者がアイスクリームをペロペロと舐め食べていたり、職員同士がお茶しながら話をしてる光景が鮮やかに目に入ってくるが空疎にしか映らない。手術を待つ身としてラーメンの味がしないってドラマとかで言われるけど確かに美味しい味はしないしスープの味わいが濃い。ゴムみたいな麺の食感とまでは言わないけれどもそれに準じた評価を与えていいとも思うくらいの味気なさである。食堂が悪い訳じゃなくて異常に喉の渇きを覚えて食道が引き攣るような違和感を感じていたから僕自身の問題だったのだろう。
母親が倒れてここまで動じるとは思わなかった。
いい歳なんだから、まぁ急にこういうことになることもあるって。と、心に準備してたつもりなのに全然準備できてなかった。死んではないので涙は全然でてこないけど目の前にいる妹は目に涙を浮かべている。心情は察するけれどもなるようにしかならんやろ、という妻の言葉にそれしかないわなという応えをしてる僕がいる。それよりもこれからどないなるんやろ?という未来の疑問と不安の方が津波のように押し寄せてきて状況によっては助からないほうが地獄をみないでいいんじゃなかろうか、と無粋なことまで頭をよぎって自己嫌悪も入り混じる複雑な心境となる。僕の自宅は国立循環器病研究センターから程近いのですぐに帰ろうと思えば帰れるし、すぐに駆けつけようと思えば駆けつけられる距離なので一旦帰宅しようと思えば帰宅できたのであるが、若干遠方の大阪南部から駆けつけてきてた妹はそういう訳にもいかずとりあえずは母親のマンションに寄って二人で入院の準備に取り掛かる。入院に際して必要なものは事務員がシートに列挙記載してあるものを説明してくれるマニュアル通りのものである。必要以上もなければ必要以下もないのっぺりと平坦な世界である。目の前で起きていることは激動に値するのにも関わらず周りの時間は冷静に正常に動いているのである。
昼の12時頃から緊急手術に入り終了したのが晩20時を回った21時前だった。担当執刀医から手術自体は無事に済みましたと報告を受け今後の動向とリハビリテーションについての説明をカンファレンスルームで簡易に妹と二人で受ける。後頭蓋骨壁を一部除去してアプローチし出血塊除去と止血を施しドレナージを施している状況で状況が安定するまではNCU(脳血管障害術前および術後急性期の脳神経外科系重症患者を収容している集中治療室)に入院加療し24時間体制での看護を受けることになる。全身麻酔下での長時間の手術だったので麻酔から覚醒するのが個人差があるのでなんとも言えないけれも遅くても明日中には覚醒するだろうこと。脳内出血部位が小脳からとなり、脳幹との間に貯留していたため後遺症としては身体的バランスを取りにくいことになるであろうこと。早めにリハビリテーションに移行すると回復は早くなること。除去骨壁は廃棄(!)処分となりますがこちらで処分しても構いませんし希望とあればお渡しもできますが如何しましょうか、ということ(これに関しては即決してくださいとの旨)。骨壁除去相当部は壁再建せずに開放状態として硬膜支持となるということ。とりあえずは手術自体は成功の部類ですが症例が症例だけに呼吸停止の経緯もあって小康状態なのでここ2〜3日がヤマだと考えていただいて覚醒してみないとなんとも言えない状況であることには変わりのないこと。などをつとつとと説明を受けた記憶がありますが今思い出そうとしてもこれ以上のことがあまり鮮明に浮かび上がってこないのでこんなものだったのだと思う。説明は逐一と術前のCT画像断層数枚当該箇所の血腫状況と術後のクリアになったCT断層画像を見比べながらのものとなる。浸潤や梗塞などがない綺麗な出血・血腫状況だったので部位も一目瞭然で覚醒回復すれば問題ないだろうし痲痺などもないのではないか、という憶測もできるほどに冷静だった。
まだ麻酔鎮静下の状況で眠ったままなのですがNCU内ベッドでの接見は可能ですから一度見られてからお帰りになりますよね?という事務員と看護師の声に甘えて昨日以来の母親の顔を見る。スパゲティ症候群みたいなのを想像していたけれども想像よりは導管が少なくて頭部髄液ドレナージは表からは見えないものの径鼻菅マスクに点滴導管が腕に一箇所のみ。疲弊した表情と顔色のなさと3D顔貌から2Dな平面へと化した色気のない顔貌へという変貌、だらんとした身体の精気のなさ、存在感の希薄さ、周りの僕たちには何もできることのないというやるせなさだけがそこに存在し空気が薄く重くなる。早く元気になるように!と妹と二人で声を掛けて30分程で退室する。
ほどなくして母親の弟である僕の叔父が来院する。ある程度の経緯、経過を説明する。説明してるのにまた担当執刀医に説明を訊こうとするのを横に付いてきていた叔母(=彼の妻)に止められる。彼は担当執刀医に挨拶だけしてNCU病室内の母親に接見してから帰る。昼間に母親が倒れて救急搬送となった際に
「あいつはいつもちょっとしたことでしんどいしんどい言うて怠け気味が癖についてたからいつもと同じ事やろ、心配なんかいらんわ。大げさやねんから。」
と、吐き捨てるような言葉を放った叔父のことを僕はまだ許せていないのかもしれない。確かにそうかもしれないし、そうじゃないかもしれないこともある。様々な押し寄せるようなことが疲弊を招きこの時には憤怒やるかたない思いがあったにせよ何事も無かったかのようにやり過ごした。母親が倒れたのは叔父の所為ではないし叔父がそのような唾棄すべき言葉を放ったとしても何も状況は変わらなかったのだから受け取った僕の側だけの問題である。しかしこの言葉は一生忘れないと確信している。
車を持っていないので妹の車で自宅まで送ってもらい予定していた鶏もも肉唐揚げとポムフリットを拵えて晩餐とする。まさかの帰宅してからの自前の揚げ物。一緒に高知の酔鯨特別純米酒を一献傾けながらイタリアの白ワインを1本開けて最後にグラッパをやりながら今まで母親と一緒で楽しかったこと、苦労かけたこと、苦しかったこと、これからしようと約束していたことなどの思いに耽りながら夜半AM3時過ぎまで通院ならぬ痛飲していたと日記には記してある。