最初の岐路
最近、自分の在り方、生き方、人間関係、ライフスタイルについて、考える時期がきているらしい。
人生で何回か深ーく考えることがあるけど、今回は世の中混沌度が過去最高なので「簡素化」「有機的」ということが衣食住、人間関係全てに共通したベースにしてほしい、と願う。
そして「楽しい」「好き」「面白い」と思えること、
創造/芸術的、独創的に。
小学4年(だったかな?)のある日、
クラスの話し合いの何かで多数決をとることになった。
自分の思う方に挙手をしたら、私一人だった。
なぜその意見に挙手をしたか理由を話す、
という状況になり、
全員が私を凝視しているのもいやで、
一瞬、面倒くさいし、「やっぱり皆と同じ意見にします」
と言いそうになった。
しかし、私はハッキリキッパリ最初に挙手をした方に理由と考えがあった。
「ここで妥協して皆の方へ行ったら、すごく後悔するはず」
と、素早く脳内自分会議→決議→自分の意見を貫いた。
躊躇している私に気づいた担任が
「自分が思うことを話していい」と言った。
私は立ち上がって手短に何か言ってすぐ着席し、
しばらく天井を見上げていた。
もちろん、多数決なので皆が挙手したほうに事が進んでいったけれど、
私は天井を眺めながら「これは何か大事な分かれ道だった」ように思い、
この事はずっと忘れない気がする」と思った。
実際、今もその時の天井の柄までも覚えている。
今も、あの時はあれでよかった、と思う。
本当に大事な分かれ道の1つだったと思う。
あの日の事は、その後の人生でずっと勇気が必要な状況でリマインダーとなり、
あの経験で自分を生きる何かの軸の「助けになった」かもしれない。
そう信じておこう。
だから、その後の義務教育システムや、
家庭も学校も暴力があり、個性の尊重がないことに我慢の限界がきて飛び出せた。
(この話は別記)
私は、いろいろな人の意見を尊重したいし、自分も尊重されたい。
しかし近い距離で仲良くする相手は、
私のあの小4の時と同じ立場になったら、やはり自分の意見を貫くような人と仲良くなりたい。
(何かの理由で自分の意見を抑えて多数派にいく場合の理由によっては例外もあれど)
その場合も、いかなる選択でも、自分の選んだことに堂々としているような人が好き。
人にどう思われるかで何かを決めると必ず迷子になる。
そして後悔。
不安を動機にしていると、
今ではなく未来の対策と過去の後悔に生きることになるのではないか、
そしてそのパターンを繰り返し苦しくなって、麻痺し、多くを見失う。
そういった行動や悪循環を自覚しないまま、
しなくてもいい忍耐をしたり、
人に合わせて自分を見失い理解されないと、
「私はこれだけ頑張っているのに!」などと外に不満が向くような承認欲求が強くなっていくかもしれない。
本当に一生懸命やっていれば、人の評価は気にしなくてもいいんじゃないかって思う。
相手が何かを言っても、それはその人の意見で、自分はこう思うな、と
卑屈にもならず攻撃でもなく、「意見の交換」が叶うのではないか。
自分の行動や選択に納得していれば、
それで嫌な思いをしても、何かの糧になっていくというか自分の人生がつくられていくよね。
(そうもいかない状況が多い日本社会はとっても息苦しいよな)
やはり、私は自分を生きる人を好きだろうし、
私も一生そうあろうと思う。
いやーほんと今の矛盾理不尽社会ではいろいろハードすぎるなー