yoico
旅の想い出メモ。過去の旅も含めて。時系列はあまりきにしない。
引っ越してきたここでの環境をexploreしていろいろな良さを発見するまでに、1年数か月もかかってしまったわ。。 現在住んでいる物件自体は、近隣環境的にとても困りごとがあり、 引っ越してきてすぐにも「早くこの物件を出たい」とずっと思っている。 ここのエリアに住むのも、一時的なつもりだったこともあり、 「とにかく早くここを出て、遠くの新拠点へ」の一心、 そのため、つい減点ばかりして、 ついつい長く暮らした東京と比較するようにもなった。 東京に居る時は居る時で、いくらでも粗探
いろいろ振り返る時期が続いている。 後から読み返すぞ、の備忘録も続く。 たぶん、私は15歳から20代後半までは、 「人生は楽しい、無限の可能性がある、こわいものはない」 みたいなスタンスで生きていたと思う。 今は、その時の心持ちと、全然違う、ほんとに。 14歳までは残念な環境にいたが、 なぜか「本当の私の人生はまだこれから、ここは本当の居場所ではない、このままでは終わらないぞ」と、強い希望があった。 (実際そうだった) 苦しい中でもまだ世界について知らないことばかりで、
特にこの数年、私はいつも心配したり、怒ってばかりで、 ストレスで体調不良~体調不良でストレス~の堂々めぐり。。 不安対策やリスク回避に多くの労力と時間を使い、 思い通りにならないことにイライラし、 辛さにフォーカスし、 人生の流れも人も何もかも信用できず、 不満や不安のループ状態… なんとかしよう、ここから抜け出したいという不安と焦りモードでなく、 望む振動数に今すぐに設定する、 とにかくまずは安心することだわ、 と思っても、朝起きた瞬間から憂鬱モードでスタート。。 (無
いろいろなきっかけがあり、 過去になかったほど、内省が、深く、広くなっているのではないかと思う。 私は自分が思っていた以上に、人のことが気になっていて、 自分の過敏さや納得できない人の価値観や行動にいらだっているようす。 自分の理想と現実のギャップ、 世の中の不条理やそれに対してどう取り組みたいか、を話しても、 理解されていないと思っていた。 同じ考えでなくても、協力できるところは協力したり、 一人では思い浮かばないアイデアを人と話すことで見出したり、 ディスカスしたりした
なぜか意図せず、 ひょんな流れで、久々に人の人生相談のページにたどり着いてしまい、 1つ読んだら、また次の相談と読んでいたら、 なんと1時間も費やしてしまった。 (鴻上さんが回答する人生相談だったから、面白かったのもある) 大抵の人が人生に悩んでいる、という当たり前のことが、 自分も辛い状況だと忘れがちになる。 視野が狭くなってしまっているのだな。 いくつかの悩みを持つ方々の話を想像しながら読んでいると、 相談者の話に矛盾があることを度々発見する。 本人はもちろん気づいて
私は異様に集中力が続かない。 ひとたび集中すれば、 その集中は深い、ということはあれど、とにかく続かない。 勉強なんかでも、こまめに休憩というか、散漫で、 気づいたら、つい別のことをしてしまっている。 (語学の勉強なんてある単語を調べて例文などをみて、その中にまた別の気になる単語を調べて、はたまた類語は?などと永遠に飛び続けていく) いろんな寄り道や別の事をした直後に勉強したところは、 その寄り道の記憶とセットで覚えていたりするので、 私なりの方法とペースで、総合的に独
若いころ、旅で出会った人達に、(特に年上の親世代の方々) 死ぬまでに「回顧録」「自伝」を書きたい、と話す人が何人かいた。 当時は、 「ふーん、長い人生を振り返って書くって、大変そうだな」とか、 「自分もいつかそんなふうに自分のことを書きたいとか思うのだろうか?」 などと思ったものだが、なるほど、歳を重ねていくと、 「自分の人生をじっくり振り返り、記録」 したくなる気持ち、わかる。 これまでの人生をじっくり振り返って記録したい、と思うのだ。 人生路頭に迷った時も、 「記録」
数年前は、花を必ず活けていたなぁ。 家庭菜園や、室内にも鉢植えも含めて植物がたくさんあった。 いわゆる香害とかでベランダ使えないとか窓をなかなか開けられない、 切り花については、花を切るっていうのがちょっとかわいそうと思ったきっかけがあったこととか、経済ピンチなどなど、 いろんな理由で今は、植物がサボテン位しかないの、、 やっぱさみしいかな。。 数日間、一人で家にいる機会があって、ずっとやろうと後回しにしてしまっていた片付けと大掃除を計画の半分くらいは達成した。 実に、引越
友人へメールを書いたことのいくつか、ここに記録しておくことにする。 あとで時間をとってじっくり考えたり感じたりするためにも。 バランス・・・! 近しい人々は、私の極端さを、おもしろがるような、あぶなっかしいような気持ちでみているかもしれない、理解という愛で。 こだわりと執着はちがうのだよな。 私の「こだわり」が執着と欲になっていることに気づかねばならぬ。 そして、不安からきている、ということも少なからずある、とも。。 期待と希望、 悩みと迷い、 このあたりを混同しがち
芸術、ユーモアって、すごく大事ではないかと思う。 センス。 伝えたいこと、社会問題、環境問題、などなどなど、 何かを伝えたい時、特に真剣に、深刻なことならなおさら?! 相手が気ごころの知れた仲、というわけではない場合は特に、 言葉だけでは難しいと思う。 誰にも多かれ少なかれ先入観やジャッジがあるだろうし、 やりとりの中で、少なからず誤解があったり、 言葉のやりとりで、人の心に届く、響くことはなかなか難しいことが多い。 言語の壁、考え方の違い、説明しようとすると途方に暮れ
私が一番好きな事は海に入ること、海で泳ぐ、海に浮かぶ、海の中で踊ること。 もう、この国で、安心して安全な海では、泳げないかもしれない。 今もすでに多くの影響はあるかもしれないけれど、 今夏、本当に福 島 原 発の処理水が(処理水なんてレベルではないでしょう)海 洋 放 出されれば、どうなるか? 多くの影響、様々な被害が想像できる。 これ、本当に深刻なことなのに… 調べない、関心がない人の多さ… でも確実に日本人全員に影響があること。 そもそも、処 理 水ではなく汚 染
世はそこらじゅう問題ばかりになっちゃったが どこで、何が、どんなふうに問題なのか、 どこから何を切り出しても現状の深刻さは理解せず平和と思っている人はまだ… 話す相手が、よく知る友人知人でも、 何か質問をする組織や団体や企業での対応する人でも、 誰であっても、 切り出し方や、話す順序は大事だと思った 相手がどこまでの知識や情報を持っているか? どんな観点を持っているか? 事前に少しわかることもあれば そうではないこともある 人は誰でも偏った見方をしてしまうものらしい も
今回、ある経験をして再実感した。 世の常識、多数派というものがどれだけ多くの人を洗脳し誘導しているのかと。 全体主義… この国の社会、世の中、ほぼ全ての構造がそういうものではないだろうか。 多くの人は疑いもせず常識や多数派意見をやみくもに信じてしまう。 「疑いもせず信じ込んでいる」ということすら無意識に。 不安、に付け込まれちゃうからカンタン。 私は生き方として「自分で納得して決めたい」というのがあって、 これはどんな時も、どんなことにでも。 自ら思考、調査しない人ほど
頭の中でいろいろなことがうごめいていて バランスを欠いている からだは正直というのは否定しようがない 痛みが強いほど、痛みから逃れようとして心ここにあらず そして緊張が続き、こわばり、痛みは燃え続けて もはやもう平常心はなかなか持てず、のループ すべては機会 ずっと私のスローガンとしていること 多角的に眺めよう、よりよく活かせるほうへ、 と取り組んできたつもりでも、 振り返ると偏りやパターン化していることがある それが極まって痛みや不調にでてきておしえてくれる そう
自主的な理由で選択し行動する これ人生基本ルールだわ 誰かに気を使うとか不安やリスク回避やお金が動機で選ぶと大体モヤる 自分が生きていく上で、必要な情報収集や処理、精査をして 自分自身や関わる人やものごと環境等、長い目、広い視野で知り、観察、見聞きし、きちんとフォーカスするって大事 葛藤がゼロにはならなくとも、 葛藤をなるべく持たず育てぬように、 そうして納得した自分の考え、感覚、直感や感情、 自分で決める、ってことがホントに大事だなぁ 葛藤は不安、怒りに繋がりやすく
「あ!また思い込みの中にいた」 「刷り込み…」 きっと、こういうこと、今後もずっと続くんだろうけど… 先日、久々に本屋さんでゆっくりいろいろな本をパラパラと眺めていた。 いくつかハッとするような文もあって どの本だったか、忘れてしまったけど、、 「怒るっていうことは困っているということ」 っていうのにとても納得して自分を省みた。 このところずっと、ストレスがぐんぐん積み上がっていって その処理もできず、 あぁやっぱり私のストレス耐性は低いぞ…とか、 隣近所の香害で窓もなか