ささやかこそ、望むところ
いろいろなきっかけがあり、
過去になかったほど、内省が、深く、広くなっているのではないかと思う。
私は自分が思っていた以上に、人のことが気になっていて、
自分の過敏さや納得できない人の価値観や行動にいらだっているようす。
自分の理想と現実のギャップ、
世の中の不条理やそれに対してどう取り組みたいか、を話しても、
理解されていないと思っていた。
同じ考えでなくても、協力できるところは協力したり、
一人では思い浮かばないアイデアを人と話すことで見出したり、
ディスカスしたりしたいんだと思う。
しかし、私のコミュニケーション能力不足や、
相手も自分も先入観や決めつけがあり、
本当には会話や対話をできていなかったんではないかと思う。
丁寧に向き合う、付き合うこと。
人でもモノでもなんでも。
目と心が行き届く範囲で生きたい、
人間関係でも、なんでも、そうありたいな、と思う。
企業や組織なんかにしても、
巨大で、大きいほど、訝しむようになった、できれば避けたい。
昔は規模だけでジャッジできないよなぁと思ったけど、
この数年の社会、世界を眺めていたら、もう本当にそれだけで避けてよし、と思うくらいのこと、多々ある。。
(例外は、あるのだろうけれど)
完全にとはいわないまでも、
クリーンな企業や会社、どれくらいあるのだろう?
実際、買いものとかエンタメとか、
自分の選択に関して希望と矛盾していることはあって、
他に選択肢があるのならば、共感や交換を持つ個人や小規模組織を選びたい。
(今の社会では、戸籍も捨てジャングルへ行くほどでなければブラックと関わらないなんて、無理だな、、サバイバルスキル不足でそういうのはまだ無理だわ)
有機的循環をちゃんと意識して全体像を見て運営している人やお店などを発見したいし選びたい。
そして、全然広告もなく有名ではないけど、実直に誠実に生業を全うしている人とか(街のマンションの一室でひっそりすごい治療が行われていたりとかね)
夫婦二人の家で作るごはんが、そこらへんのお店より安心で絶対おいしいよなぁとしみじみ味わったり。
音楽とか芸術とかも、その作品自体は素晴らしくても、
多くの人やお金や注目、利権などにまみれていくと何か雑多な腐敗というか汚れというかなんかなぁと。今の社会では時間が経つほどに。
ノー〇ル賞やらグ〇ミー、ア〇デミー賞、
○○省の公認や推奨とかもうそれだけで不信感w
散々いろいろあった巨大な組織や団体、それらの誘導にまだのっかるなんてできまへん。
ここまできて、それはそれ、これはこれ、なんて都合よくはいかないだろう?
命や人生犠牲になっている数がかなり出ていて、しかも周囲にもいるなんて、もう許せる程度の度を越しているのです。
ずいぶん昔からの支配的、管理されるシステムであっても、かなり露呈したこの5年を振り替えって世界を見直してみればけっこうこわい。
規模が大きくなると、たいていクオリティが下がる。
大きくなれば管理の必要が出てくるからそうなって当たり前で、
便利になっても質は下がる。ずさんになる。
人を相手にして、心をこめられることには限界があるのだ。
そして、
なんでもかんでも鵜呑みにはできない世であることは確かなのだが、
自分自身の注意点としては、
「疑う」より、「冷静さ」が大事かなと思うこの頃。
鵜呑みにして依存するにしても、疑ってかかるにしても、
どちらもエネルギーを使い、疲れるし(無意識でも)
感情が必要以上に判断力に影響することが多い気がする(自分調べ)
ついつい忘れてしまうが、、できるだけ冷静に、多角的に、と心がけたい。
これが本当に難しいのだが、気づいたら、その都度の繰り返しか。
いろんな意味で「どーでもいい」って今の私にはけっこう力が抜ける。
ほっておくと神経質に何でもかんでも知って調べて、にどんだけ労力と時間を使っているのか・・・
不安を動機にして、それがパターン化すると、
ほんっとに病むんだな、ってよくよくわかりました。
そう考えると、どーでもいい、というより、
「今」に在れ、ってことか。
その辺については、ジョー・ディスペンザ博士の話は結構いいなと思う。
意識の向き!
今、に在ること!
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