数学教育と独創について
昔に書いた、岡潔が数学教育について自著で述べているところをそのままの形でただ書き起こしただけのブログ記事だが、その記事だけダントツでアクセス数が多く、岡潔について調べる人が今これだけ多くいるのかと実感した出来事であり、今でもときどき自分で見返すことがある。
その中で、次のことが書いてある。
ここで語られている思想はきわめて深遠であり、尋常一様の解釈では咀嚼できない世界に根差している。
数学教育で行なわれていることは、詰まるところ(複雑さの度合いの高まりに応じて難易度はあれども)式変形の計算をしており、その範疇を出ていない。そして、その計算は分野や出題範囲は限定されているためほぼ解法がパターン(決まった形式)に整理され尽くして、そのパターン通りに計算をできるように学生たちを訓練することが数学教育である、という風になって来ている。しかし、それでは純粋直観が働くように人の情緒は育たない。だから、数学教育は根本から考え直す必要がある局面に立っている。
岡潔の言葉をもう一つ、引用する。
そして、数学というものは、この夜の闇を照らす光なのであって、現在のような世相にとっては大いに必要になるのだと話は展開していく。数学をやってどんな意義があるのかと問う人には、一度よく読んでその意味するところをよく味わって欲しいと切に願う、ぼくの大好きな文章である。
ここで一つ想起しておきたいのは、岡潔が『独創』の重要性を何度も繰り返して説いていたことである。
何かを学び吸収するとき、そこには少なからず方法や知識と言った形式が存在しており、それは学びをスムーズにするために先人が整理整頓して頂いている有難いものである。それを軽視してただ我流でやっていては、真に深遠な高みへは到達できないであろうとぼくも思う。しかし重要なのは、形式はあくまで形式であり、例えば形式が計算ならば、その計算が指し示している実体は何なのか、そのような実体をきちんと「認識」することにある。その認識なく形式にもたれかかっていては、新しい未知の何物かを認識するに到達することはあり得ず、ゆえに『独創』と言えども虚しき言葉に帰してしまう。そのため、岡潔は数学を認識の学問であるとも言うたのである。決して計算は数学の本体ではなく、むしろその影の描写に過ぎない。
いろいろなメソッド(方法)や知識が氾濫している現在の世相にあって、「ある決まった形式通りにやったらそのとおり結果が出た」という類のパターン(形式)化されたものを流布し、人々の真の意味での考える力(純粋直観)を弱めようとする勢力が今後ますます強まってくるであろうと思う。そういう夜の闇に際して、しかし本当は、一人ひとりが『独創』へ取り組んでいく必要があり、またできる人々は一定数いるはずであると考えている。もちろん、かく言うぼく自身も本氣で取り組んでいく。
少数の人々でも理をわかって氣づいて頂くよう、自分自身も謙虚に精進していきながら、活動の領域をだんだんと広げていきたいと日に日に決心を強めているこの頃です。