Mathematicsへの展望について
Mathematics as it could be.
Mathematicsを「数学」と言うのは誤訳なのだが、しかし正訳が思いつくかと言うと結構むつかしい。本稿ではMathematicsの語をそのままで使うことにする。
Mathematicsは人類が歩んできた歴史(history)に直結して存在している。人類が時代の変容と共に、どのように思考し、どのように行動してきたか、その殆どの情報が《Mathematicsと云う記憶媒体》へと忠実に刻印されている。
冒頭に挙げたのは
『あり得たかもしれないMathematics』
と云う趣旨の言葉である。この言葉には「Mathematicsが香り放つ『余白』へと注力してゆきたい」と云う氣持ちが込めてある。
よくMathematicsはそれ自身が草木に例えられる。種(タネ)があり、土に植わる中で芽吹き、やがて花を咲かせる。土壌や天候によって、大きく育つものもあれば、小さく枯れてしまうものもある。そして、いづれは朽ち果てる。
ぼくたちの瞳に映っているMathematicsは、ほんの僅かなものなのだ。だからこそ育たず土へと溶けたMathematicsにもまた、目を向けよう。そこには広大な余白が肥えている。ぼくたちは、いま『新しい種』を植え育ててゆこうとしているのだ。
( あり得たかもしれないMathematics = 余白 = 新しい種(タネ) )
Mathematicsという言葉はそもそも、古代ギリシアに活躍したPythagorasによるとされている。
Pythagorasによれば、Mathematicsとは元々
〈手許(てもと)にあるものを掴み取る〉
と云う意義を持っている。
Pythagorasは《智恵を愛する人(Mathematician)》であった。ここで言う「智恵」とは「生命に埋蔵されている魔術的な力」のことである。Mathematicsの目的(purpose)とは〈智恵と繋がる〉こと。 "愛する" ことは "繋がる" ことである。
智恵(wisdom)は、外側(社会性)ではなく内側(身体性)にこそある。
概念(concept)は外側(社会性)にある。Mathematicsの本質(essence)は〈既知なるものを未知なるものとして "瞬間的" に手中へ収める〉こと。しかし、脳中に収めると概念(concept)となるから現実(real)からは遊離してしまう。
( 手元にあるものを掴み取る = 智恵と繋がる = 既知なるものを未知なるものとして "瞬間的" に手中へ収める )
外側(社会性)は「脳」が基盤。内側(身体性)は「手」が基盤。
Pythagorasはしばらく誤解されてきた。誤解はMathematicsを「数学」と誤訳するに導く如き "混乱" を生み出し、世代を渡って人類は混沌(chaos)へと呑み込まれてきた。その要因となったPythagorasの宣言(Manifest)が次である。
Pythagorasの宣言(Manifest):
万物(material)の根源(origin)は数(number)である。
Pythagorasの言う " 万物(material)" とはなんだろうか。その根源(origin)が数(number)であるなら、つまり万物(material)とは外側(社会性)に根差した観念としてのものに過ぎないのではないか。手中からは散らかり、脳中にしか住めない複雑(complex)なものが万物(material)と云うものである。
Pythagorasの宣言は、Mathematicsとはなんらの関係も持たない。
Pythagorasに対する誤解はほどくことができる。従来のMathematics(と信じられていたもの)は「時空の框を仮定的に用いて、その中で現象(phenomenon)を記述している絵空事のやうなもの」に過ぎない。つまり、人類の頭が描いてきた幻想である。ぼくたちは【Pythagorasに対する正解】を提示してみせたい。
展望:内側(身体性)に根差した『実在としてのMathematics』の建設。
『Pythagorasが提唱したMathematics』は、万物(material)を研究するものではなく『岡潔(1901-1978)が提唱した《情緒》を研究するもの』である。
岡潔によれば、情緒とは「定義のない言葉」であり、自著では道元禅師の正法眼蔵から ”恁麼” についての論考を引いて説明するなど、非常に感性的なものとして語られている。理性的には、恁麼とは量のようなものであると考えてよい。
情緒は手中に住む単純(simple)なものであるから現実(real)へと密着する。
情緒の根源(origin)は量である。
万物(material)の研究から脱却して《情緒》の研究へと移行してゆくことが、展望の達成には不可欠である。万物(material)は外側(社会性)に関すること。情緒は内側(身体性)に関すること。両者の間には絶対なる壁があり、干渉することがない。ゆえに誰もが、脳が描いてきた幻想を喝破し、手が導いてゆく本源へ帰還することができる。そのことを岡潔が発見し伝えてくれている。
岡潔こそは《Pythagorasの再来》と呼ぶに相応しい。
岡潔と共にPythagorasが提唱したMathematicsを発揮しよう。Mathematics as it could be. で云うMathematicsが醸す輪郭をほんのりと浮き彫りにすることで道筋は拓けたと信ずる。「万物から情緒へ」が、ぼくたちの合言葉である。
以上より、溢れてやまぬMathematicsへの熱情を筆に代えて本稿を締めるとする。