デジタルの向こう側
メタバースという言葉を頻繁に聞くようになりましたが、実は「メタバースって何?」そんな疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?
定義でいくと「メタバースとは仮想空間」のこと。VRやARなどの仮想空間技術の進歩とともに、新たなビジネスや体験につながるツールとして注目を集めるようになってきました。同じようなタイミングで、Web3.0やNFTという言葉がメディア上でも頻発しはじめ、何やら「デジタルマーケティング」業界と呼ばれるエリアはまた次のステージに入ってきたのかもしれません。
しかしながら、既に「デジタルマーケティング」ってあえて区分必要があるでしょうか?デジタルが活用されることがほぼなくなっている昨今。わざわざ「デジタル」と冠する必要があるのか?それはありませんよね、って思ったりします。
あえて言うなら….これまでの「マスマーケティング」なるものを知っている私たち世代がデジタルネイティブ世代とどうコミュニケーションをとることができるのかってことでは??
今日はそんなことについて考えてみようと思います。
"歌舞伎"が”超歌舞伎"へ
「歌舞伎」とは、"〈歌〉音楽性、〈舞〉舞踊性、〈伎〉技芸・物真似"と定義される独特な様式的演劇で、江戸時代は初期遊女歌舞伎、明治時代以降歌舞伎と言われていました。
一昨年から京都の南座で立ち上がり、8月から東京新橋演舞場で開催される「超歌舞伎」とは従来歌舞伎に加えて、デジタルヴーチャル・シンガー(初音ミク)が3Dホログラム(立体映像)によって歌って踊りながらコラボしている舞台です。中村獅童氏がこの舞台を牽引しています。
ここで注目するのは他でもありません。多くの皆さまがご存知かもしれません、"初音ミク"という「クリプトン・フィーチャー・メディア」という札幌企業で作成された音声合成システム「ボーカロイド」のソフトウェアでありバーチャルシンガーの存在です。初音ミクには、世界中には数百万人のファンがいます。それが歌舞伎とコラボとは気になりませんか?
1)リアルとバーチャルを融合
はじめに、この超歌舞伎のリアルとバーチャルの融合の意味すること,可能性はどのようなことを狙っているのかを考えてみましょう。
結論から言えば、超歌舞伎とは"リアルな人間とバーチャルシンガーが共感でき、アートをコラボレーションできて熱狂する楽しいと捉えるエンターテイメント"であります。
一方の初音ミクは毎年進化しており、女性ボーカルを取り入れた作品でバージョンアップされているようです。そしてそれを増長しているのはクリエイターの創作意欲を高めて刺激される効果があるとのこと。まさにテスラ社のEV車のようにバージョンアップしていると言えるのではないでしょうか。
今回、初音ミクを取り入れた獅童氏が積極的にこのように挑んだのは、歌舞伎の在り方が古典伝統的日本芸能の道ではなく、現代における進化と伝統にテクノロジー、バーチャル、メタバースなどを加えてより新しい世界の構築を目指しているからではないのか、私にとってはそう感じざるを得ません。
2)歌舞伎の分類
次に、"超歌舞伎"は歌舞伎分類でみると⑤現代歌舞伎に属します。しかしながらこの「超歌舞伎」はその中でも異質な次元を目指しているようかのように感じます。だって…思いっきりバーチャルですから。笑
分類上の「超歌舞伎」を考えてみると、単なる現代歌舞伎ではなくリアルとバーチャルを対峙しながら人間にのみしかできる領域を知る、という部分が特徴です。
あくまで推測ですが、一座と初音ミクとの単なるコラボを求めたのではなく、デジタルの可能性領域を知りそこから人間の能力を再認識することが超歌舞伎である、と伝えようとしているのが彼の狙いなのではないかと私は汲み取っています。彼が歴史を背負っていたから、しかしながら現代的な時代を生きているからの発想なのかもしれません。
3)超歌舞伎の狙い
だとしたら、、そこから私たちが知るべき、学ぶべき、考えるべきことは何なのでしょう?
もう一度問いますね。歌舞伎の世界が、初音ミクとコラボする意味はなんだったのでしょうか?
歌舞伎のアナログの世界にデジタルを加えて、新しいファンを増やす為だったのでしょうか?歌舞伎の世界観を変えようとしていたのでしょうか?そこで伝えようとしていたリアルとバーチャルの世界を融合は何をもたらすのでしょう?
私は実は、ここに"人間にしかできない領域がより明らかになっていくことを見出したかった"のではないかと思うのです。人間の尊厳性が良い際立つように感じた、とも言い換えることができるかもしれません。
デジタル移行への葛藤
某百貨店のメタバース担当は、これからのデジタルとしてのマーケットの広がりに対して「開店時間を引き延ばせるとか、自宅との距離感がなくなるとかに利便性を追求している」と私に説明いただいて、そこに向かうためのβ版も見せてくださいました。確かにそれって新しい発想でした。
確かにそれは一つあるかもしれない、だけどそれは企業側の理屈であるのと同時に百貨店の本質価値の面白さは感じないと思ったのですよね。デジタルの技術を取り込むには、物事の本質を理解することから始めることが必須なのではないかと感じる、いや理解する事象の一つであると実感した記憶でもあります。
違和感とは?
思うところ、アナログとデジタルの混合というのは違和感が浮き出してくる機会であるとも言えます。これまでの世界感とは全く異なる世界は、私たちに違和感を与えます。では、今回のコラボはそこが狙いだったのでしょうか?いや、違うと思うのですよね。違和感を感じさせた後の再構成ができないと、違和感だけに終わってしまう。それでは意味がない。
少しだけ別の切り口で考えてみましょう。ロシアの作曲家、ストラヴィンスキーの「春の祭典」をご存知でしょうか?
のどかなタイトルと裏腹に、キリスト教の伝来以来の古代ロシア異教時代に、太陽神の心を鎮める為の捧げものとなった若い娘が死ぬまで踊り続ける生贄儀式がモチーフ。エネルギーを感じる強烈なリズム。複雑なリズム構造。大胆な和声の使用。この複雑なランダムな中に、数字的なパターンを見いだしていく。
このような展開を広げていく「春の祭典」は最初に聴くと不協和音に包まれており無秩序になりますが、徐々に強く美しい生命の響きに感じられていくのが不思議です。これはまさに違和感の極みではないかでしょうか。そして、ここで感じる生命の響とは?もしかしたらここら辺にヒントがあるのかもしれません。
まとめの代わりに
人間にしかできない表現方法とは、どんなものでしょう?エンタメとしての超歌舞伎から学べることは多々あります。それは人間と技術、人間と社会の在り方といったことかもしれません。
一方で初音ミクが到達できる領域は、人間の美意識を満足させられるのでしょうか?例えばミクは、日本人の美意識にある「粋(いき)」をどのように表現できるのでしょうか?
ドイツの経済学者フリードリッヒ・リスト流に言えば、このような視点が、また新たなる歌舞伎の再構築になるかもしれないと言えます。このテーマ、すなわち「人間の能力・可能性がある」本質を問うことができます。それが現在の資本主義が、今後どのような社会になり人間の在り方を考え、我々を豊かにさせてくれるのかを考える機会になるかもしれません。
因みに、以下が今回の超歌舞伎の演目で中村獅童と初音ミクが共演する追求二演目となります。一つは歌舞伎の起源であり、もう一つは蘇我入鹿殺害の大化の改新(時代物)です。この二つを選択することも、なかなか興味深いですね。
ではまた次回。
(完)