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神様はいないものと仮定する

14世紀、イタリアから始まったギリシア、ローマの個展文化を復興しようとした文化運動(ルネッサンス)

今となっては当たり前と思われている「個人の尊重」とか「自由主義」というのは、このルネッサンスがなければこれほどスタンダートになってなかったかもしれません。

中世ヨーロッパにおいてルネッサンスへの道を切り開いたのは「黒死病」と恐れられたペストのパンデミックです。

当時の黒死病は「神がもたらした罰」とみなされていました。
しかしその火種は神を信じる聖教者をも呑み込み、ヨーロッパだけでも数千万もの命が奪われたのです

それを見た人々は、「これだけ私たちが困っているのに神様は何もしてくれないじゃないか」「神様に頼んでもダメだ」「もっと人間を信じてみよう」
こういった思考に変わっていきます。

大体話が見えたと思いますが、詰まるところそういうことです。

「人間は神様によって作られた」という考えが根強く残っていた当時は黒死病の原因のほとんどが宗教や迷信を前提にしたものでした。

「これを持っていれば黒死病にはかからない。」なんて噂を信じ、ただの石コロを家宝のように大事に持ち運ぶ人もいたらしいです。

しかし「神ではなく自分たちでなんとかするんだ」という思考に変わると、黒死病の研究も進み、この菌はノミが噛みついた際に相手の体内に送り込まれるペスト菌であるというところまで明らかになったのです

今回の話は神様がいる、いないの話をしているのではなくて、ハッキリいないとわからないうちは、とりあえず神様はいないものと仮定して物事を捉める方がいいのではないかということです。

いるのはツチノコだけ。
(ちょくちょくブッコむ)

 

神様はいないと仮定しているので、参りにはしないし、お守りもいらない。おみくじなんかに心を動かさない。

ここをハッキリさせることで考え方整理され、物事を主体的かつ論理的に見れるようになるのです。

例えば、失敗や成功の過程が理解しがたいものだったとして、それらを全て神のみ技と捉えてしまうと、また不完全なものと出会った時に、それも理解することを放棄します。

簡単にいうと、思考が大雑把になるのです。

「努力すれば報われる」とか、「俺が成功したのは継続し続けたからだ」と言った感じでです。

努力主義に多い、頭を使わず体だけ動かすリーダーとしては大成しなさそうな全身筋肉野郎です。

つまり、理由を模索する癖をつけなくてはいけないということです。

なんとも認めがたい「なにか」が起きた時に、それを神だとか偶然だとかで片付けてしまうのではなく、無理やりにでも理由を捻り出す必要がります。

確かに「偶然」は存在します。

たまたま自分が夢中になったことが天職になり、そこからことが発展する人もいれば、そうはならない人もいる。この違いはなんなのかと言うと、間違いなく運でしょう。

しかし、それを運と捉えてしまってはいけなくて、できる限り主体的に完結させなくてはいけないのです

神様とか、お守りにすがった人類がどうなるのかはすでに歴史が教えてくれています。

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