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『誰も語らなかったジブリを語ろう 増補版』 押井守

4年前?

電子書籍で新刊本を購入する割合が増えた。その気になったらすぐ購入できるし、文字サイズも大きく読み易い。本を何冊も持ち歩く必要もない。コロナ禍以降、その傾向はより顕著になった。

にもかかわらず、本屋を巡る楽しみは捨てられない。新刊コーナーに平積みされた本を眺めるだけでワクワクする。夏も終わり、申し合わせたかのように新規感染者数が急減し始めた。久しぶりに街の本屋で心の命ずるままに本を手にとって開く。あれ、なんでこの本が気になったのかなと思いながらレジに並んで、よく見れば「増補版」とある。前書きの日付は2017年。

そんなふうに購入したのが『誰も語らなかったジブリを語ろう』(押井 守 著)だった。なぜ4年前に購入しなかったのか。新海誠監督の『君の名は』を観て盛り上がっていたのが2017年の2月だったから、気持ちがジブリ離れしていたのかもしれない。増補版には「あの鈴木敏夫PDとの最初にして最後の(?!)往復書簡」とやらが付いている。むしろ得したかも。

いつから?

それにしても、自分はいつからアニメを映画館で見るようになったのだろう。

中学生の頃、テレビで『宇宙戦艦ヤマト』を興奮しながら観た記憶はある。でも、『ガンダム』はほとんど観なかったし、声優になりたいと騒ぎ始めた妹を冷めた目で眺めていた。高校時代はロックに目覚めてアニメに興味はなかった。大学を卒業する頃、友人がアニメーターになると言い出してデッサンの塾に通い始めた。『マクロス』の素晴らしさを何度も聞かされたがピンとこなかった。彼は実際動画の仕事をするようになったが、その給料のあまりの安さに驚いた。

社会人になっても映画館にはよく通った。でも、アニメを映画館で観た記憶は結婚して子どもができるまでない。おそらく、『もののけ姫』で遅ればせながらジブリの素晴らしさに気がつき、ビデオで子どもと『となりのトトロ』を一緒に見てから過去作品を一気に遡っていったのだろう。中でも『魔女の宅急便』は主題歌の荒井由美が好きだったのもあって繰り返し観た。これもトシちゃんの策略だったのですね。

そして2001年、ついに『千と千尋の神隠し』を家族と映画館で観る時がやってきた。実家ではじいじとばあばもジブリ作品をビデオで購入して、孫が来る度に一緒に観るようになった。どうやら、我が家は21世紀の到来と共にアニメーションを映画作品に格上げしたようだ。以降、子どもたちが一緒に行ってくれなくなっても、宮崎駿監督の作品は全て映画館で観た。

ジブリの功績

本書で語り手の押井さんは、スタジオジブリの最大の功績について「一般の客にまで市場を広げたこと」と述べる。つまり、「一般の客」って俺じゃん。聞き役の渡辺さんは「そのジブリのファンがアニメファンになってオタクになるというのはあまり聞いたことがない」と切り返す。しかし、何を隠そう『風の谷のナウシカ』の原作漫画を箱買いし、その物語の全容を知ってどハマりした挙句、巨神兵のデザインが若き日の庵野秀明だと知って、一気にエバンゲリオンに興味が移行した私はすでにオタクを自認し始めている。

帯に書かれていた「ジブリアニメをもう一度見返したくなること必至」やら「業界を震撼させた話題の本」やらにもまんまとやられた。子どもたちが成人して実家を離れた今も、『天気の子』だの『シン・エバンゲリオン劇場版』だの『竜とそばかすの姫』だのを、一人で映画館に観にいく自分がいる。これって元はと言えばジブリが発端なのだ。これまで、この現象をちゃんと整理分析したことはなかった。その機会を無意識に欲していたから本書を手に取ってしまったのですね。げに恐ろしきは書籍の帯、本屋巡りは御用心。

黒澤 明の椅子

本書を読み、実は思考停止していた自分を反省した。きっかけは、この夏に参加したとあるWEB研修会。某大学の先生が『エバンゲリオン』と『もののけ姫』の主人公を並べて、一方は内向きな若者で一方は意志を持つ若者とし、そこに時代性を見いだされているようなお話をされた。

「巨匠宮崎駿の主人公は」を無言の前提としたお考えにはさすがに違和感を覚えたのだが、「黒澤 明の椅子」に座った宮崎駿を自分はどう受け止めていたのだろう。アシタカがタタラ場に残ることの意味、カオナシが銭婆と暮らすことの意味を「巨匠の考えた物語」として無批判に受け入れ、草薙水素の誘惑を振り切って、よく分からないポニョに深い意味を探していたのだから、五十歩百歩だろう。押井さんが繰り返す「映画の本質は構造にあり」肝に命じます。

一方で、「自分の呪うべき世界」で大成功を収めてしまった代償として、「本来あるべき自分の姿」から逆襲を受ける巨匠の自己矛盾。それは片腕を犠牲にしてまで自らの選んだ道を生きるエボシやクシャナの苦悩とも重なる。なるほど、納得の宮崎駿論です。

ジブリは絵本

第四章で登場する「ジブリアニメは“絵本“」論。何世代経ってもみんなが観る共通のアニメとして、通過儀礼のように接するものになるとのこと。その意味でポストジブリはあり得ないとする押井さんの言葉には説得力がある。Afterジブリはあっても、ポスト宮崎として「椅子」に座るのは難しいのだ。『だるまちゃんとてんぐちゃん』や『はらぺこあおむし』のように、誰もの記憶に残る作品は時代の奇跡が生み出すものだから。

すでに「アニメファンの多様化」が進み「嗜好が細分化」され「サイクルのスケールが小さくなって」しまったのならば、なおさらだろう。スタジオジブリは作品を通じて日本人の誰もがアニメを映画館で観る時代を作り出した。確かに、それは稀代のアニメーターが関与した「事件」だったと思う。それにしても、押井さんの愛に満ちた暴言、痛み入りました。

とはいえ、僭越ながら私は庵野秀明、細田守、新海誠をはじめとするコロナ禍の中ご活躍の監督の皆様にエールを送りたい。街の本屋に並ぶ新刊が私たちを誘惑するように、映画館に行かざるを得なくなる魔法をかけ続けて欲しい。あまたの悔恨を積み上げながら。もちろん、押井守監督にも。

「あなたをお待ちしています」


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