「ありがとう」と言えば、それは価値になる。言わなければ、それは「当たり前」になる。
1ヶ月ほど前、遅い夜飯を食べながら何気なくテレビを見ていたら『プロフェッショナル 仕事の流儀』がはじまり、その日の放送では「ゴミ収集員」が取り上げられていた。
僕も企画を立てる仕事をしているから、「ゴミ収集員」というおそらくは普段なかなか光があたりづらい職種を取り上げる着眼点に感嘆しながら、一気に引き込まれた。
番組では、ゴミ排出量が市町村の中で最も多い横浜市で、日夜、人知れずゴミを回収するエキスパートとして岳裕介さんというゴミ収集員がフォーカスされていた。
飲食店や病院などをまわり、1日にして3トン以上(!)のゴミをたった1人で回収するという。その仕事ぶりが格好よくて、自分が子どもだったらゴミ収集員という憧れていたかもしれない。
一方で、番組を見ながら、僕は今までゴミ収集というものすごく身近な仕事に対して、ほとんど気に留めたことがなかったことに気づいた。
普段は意識する機会がないとはいえ、ゴミは紛れもなく生活の一部だ。一般的には生活の中では「ゴミ捨て場に出したら終わり」だけど、「出されたゴミを収集して処理してくれる」人がいて社会はまわっている。
有名なコピー「世界は誰かの仕事でできている」のだとしたら、ゴミ収集員がその「誰か」であることを、僕は番組を見て初めてちゃんと認識したかもしれない。
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コロナによる生活への影響が顕著になった頃から「エッセンシャルワーカー」という言葉を頻繁に聞くようになった。
日常生活を送るために欠かせない仕事を担っている人たちを意味するその言葉は、より具体的には医療・福祉従事者や保育士、スーパーなどの小売業の店員、物流の配達員、公共交通機関従事者など、ここでは到底挙げきれない人たちを指す。
大多数の人が、このエッセンシャルワーカーという人たちに支えられて日常が成り立っている。ただ、こうしたエッセンシャルワーカーと言われる人ほどスポットライトを浴びる機会は多くなかったり、価値を認められづらかったりする現状もある。
「成功者」としてメディアに取り上げられたり、脚光を浴びやすかったりする仕事は、目立つ分だけ「価値の高い仕事」などと思われがちだったりもする。だけど、そもそも仕事の価値に大きいも小さいもないし、それは見栄えとか映り方の問題でしかないことも多い。
『プロフェッショナル』では、岳さんがゴミ収集の仕事について「底辺の仕事だと言われたことがある」と話していた。そうした偏見に悩みつつも、ある日見知らぬ人から「いつもありがとう」という置き手紙をもらったことをきっかけに仕事に誇りを持てるようになったエピソードが紹介されていた。
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番組を見た数日後、ゴミ収集車を見かけた近所の子どもが「あ、ごみしゅーしゅちゃだ!」と興奮して駆け寄っていき、ゴミを収集していたおじさんたちに「ありがとーねー」と言っている光景に出くわした。それに対してゴミ収集員のおじさんたちは「おぅ!」とか言いながら笑っていた。
そんな光景を眺めながら、番組で見たそれと同様に、「ありがとう」というたった一言で、そこに一つの価値が生まれるということに気づかされた。
そして、1年前に『&Premium』の「ありがとう、の習慣は素敵です。」という特集号を買ったことを思い出して引っ張り出したら、その特集の冒頭にはこんなことが書かれていた。
「ありがとう」の反対語を考えたことはありますか?「迷惑」とか「不安」といった言葉が思い浮かぶかもしれませんが、「ありがとう」の語源をたどると、反対語は「当たり前」という単語に行き着くそうです。
たしかに、と思いながら読み進めると、そもそも「ありがとう」の語源は「有り難し」で「滅多にない」という意味だったと書かれている。「滅多にない」と反対の関係にある言葉として「当たり前」ということらしい。
だからたぶん、「ありがとう」と言えば、それは価値になる。言わなければ、それは「当たり前」になる。
ならば、普段「当たり前」だと思っていることに「ありがとう」と言ってみることで、世の中に一つ価値を生むことができるのかもしれない。「ありがとう」というたった5文字にはそんなパワーがある。
ちなみに、僕自身は一人の編集者として、『プロフェッショナル』のような着眼点の企画を立てられたらなと改めて思ったし、光があれば影もある以上、影に光を差し込むような、そんな仕事をする2021年にしたいなと思う。