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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12141-12148:2024年2月17日(土)

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タイトル一覧

12141. シロシビン・マッシュルームの6周目の収穫をして/ シャバーサナを通じた瞑想

12142. 今朝方の夢

12143. インド哲学に打たれた偉大な思想家たち/仏教徒として

12144. 瑜伽行唯識学派の思想研究に向けた言語学習の計画

12145. 川面凡児の神道神学と唯識思想・華厳思想の架橋に向けて

12146. 新たな自己と薫習/「出世」という言葉の歪曲/多様な文化体験を通じた阿頼耶識の客体化と浄化

12147. サイケデリクスと唯識思想の往復螺旋運動に集中して/「天気」より

12148. 「無想定」ではなく「滅尽定」を恐れていた自分

12141. シロシビン・マッシュルームの6周目の収穫をして/
シャバーサナを通じた瞑想       

時刻はちょうど午前3時を迎えたところだ。今日は起床して2階に上がったらすぐにシロシビン・マッシュルームの栽培キットを確認した。すると、昨日の予想通りに数本ほどが収穫のタイミングを迎えていたのでそれらを収穫し、オーブンに入れて乾燥を始めた。朝の最初の作業はそれだった。昨日に収穫したものと合わせて今オーブンにかけており、今日と昨日の収穫を合わせると、高服用量(high dose)とまでは言わなくても中服用量(medium dose)ぐらいにはなりそうである。栽培キットをよくよく眺めると、まだ小さいものがいくつか頭を出していたので、それらもここから数日後ぐらいに収穫ができれば、高服用量でのセッションを次回行えるかもしれない。新しい栽培キットの方はここから頭を出すまでにもうしばらく時間を要するだろう。ひとたび頭を出したら一気に育ち始めると思うので、それを覚悟しておこう。彼らがたくさん大きく育つことがこれから楽しみである。カンナビスを育てていた時もそうだが、シロシビン・マッシュルームを自分で育ててみて、本当に大きな学びがいくつもあるし、何よりも彼らのような生命と一緒に生活をしている感じが持てることが嬉しい。1人ではなく、彼らと共に毎日成長している実感が持てるというのは生命と共に過ごすことの良さだろうか。

さて、午前3時を迎えた今の気温は8度と暖かいのだが、ここから午前10時にかけては気温が6度まで下がる。そこから気温が上昇してきて、日中の最高気温は11度に達する。10度を超えればもう寒さは全く感じない。もちろんまだマフラーや手袋をしているのだが、10度を超えてき始めると、それらが外出途中で不要に感じられるぐらいである。今日は天気がとても良いようなので有り難く、午後には散歩がてら近所の玩具屋に行き、日本から届けられた唯識関係の書籍を受け取りたい。今回唯識については日本語の専門書も読んでみることにした。合計で10冊ほど和書を取り寄せたので、久しぶりに日本語の世界に入っていき、日本語を通じても唯識を理解したい。日本には玄奘の影響を受けた唯識法相教学という宗教・文化遺産と言ってもいいであろうものがあるので、そのユニークさに気付いたら、それを研究して深堀していくことも検討している。

数日前から、朝の瞑想と夕方の瞑想は、座禅のような形で座るのではなく、ヨーガのシャバーサナのポーズをして、ヨガマットの上に大の字に横になるような形で行い始めた。座る形式の瞑想と仰向けになって行う瞑想には違いがあり、後者は寝落ちしてしまう可能性もあるが、自分の場合は毎日睡眠をしっかり取っているのと午後の仮眠のおかげで、仰向けの瞑想の際に寝落ちすることはない。どちらにも一長一短があり、後者の瞑想の良い点は仰向けになることによって脳に血流が行き渡ることと、よりリラックスできることかと思う。また、呼吸や身体に意識を向けやすく、また意識が深まることも個人的に実感している。しばらくこのやり方で朝と夕方、そして夜寝る前の瞑想を行ってみたい。色々と創意工夫をしながら、その時の自分に最適な瞑想方法を適用したいと思う。フローニンゲン:2024/2/17(土)03:20

12142. 今朝方の夢

釈迦が菩提樹の下で悟った内容をそのまま伝えたとされる『華厳経』への関心が唯識思想に加えて高まっている。唯識思想は難解だと言われるが、実はかなり地に足の着いた実践的な理論であり、何よりもそれは悟りの世界観をその次元で解説しているというよりも、悟りに至るまでの心の性質や有り様をある意味順序立てて解説しているために本来は一般人でもわかりやすい思想なのだ。そのようなことを考えながら、唯識思想をある程度集中的に学んだら、今度は『華厳経』を通じて華厳思想についても探究をしていきたいと思う。こちらについてもできれば原語でいつか読みたいと思う。

そうした将来の学術研究上の展望が開けたところで、今朝方の夢について振り返ってみたいと思った。今朝方は次のような内容の夢を見ていた。

夢の中で私は、実際に日本で通っていた大学ににキャンパスの中にいた。そこは確かにかつて自分が通っていた母校の雰囲気を持っていながらも、母校よりもさらに敷地が広いように思えた。緑の豊かさや落ち着きはそのままで、それが自分の心を穏やかなものにしてくれていた。講義が終わり、講義棟を出ようとしたら、そこで偶然に小中学校時代の女性友達(NI)の背中が見えたので声を掛けた。するとそれと同時に、私は逆に後ろから声を掛けられ、振り返るとそこには小中学校時代の友人が数人いた。その女性友達も男性友達たちも等しく授業を終えたようで、だったらこれからゲームでもしに行こうと述べた。ちょうど近くにeスポーツを楽しめる施設が新しくできたので、そこに行ってみんなでゲームをしに行こうと誘ったのである。すると、みんなはあまりeスポーツに関心がないようで、そもそもゲームをすることにも関心がないようだった。なので私は1人でゲームをしに行こうと思った。確かにみんなが来てくれないのは少し寂しく思ったが、ゲームはみんなとでも1人でも面白いので、すぐに自分の思考は自然と切り替わっていて、これからゲームをしに行くのが楽しみでしょうがなかった。そのような夢を見ていた。

この夢はどこか自分が学術研究を進めている際の気持ちを反映しているように思う。それは1人で行っても楽しいが、誰かと一緒に行っても楽しい。自分にとっては学術研究はゲームのような楽しさがあり、1人でとことんやり込むことも無上の喜びをもたらし、誰かと一緒に学びを深めていくこともまた無上の喜びをもたらす。それで言えば、平素は1人での探究をしながらも、例えば今日のようにゼミナールを通じて他者と一緒に学びを深めるということや、各種の協働作業を通じて学びを深めることも定期的に行っていることによって自分の学びが成り立っていることに気づく。結局のところ、自分の探究活動は1人で行っても楽しいし、誰かと共に行っても楽しいというように、楽しいこと尽くしなのだと気づいて、またそれに感謝の念を持った。フローニンゲン:2024/2/17(土)03:36

12143. インド哲学に打たれた偉大な思想家たち/仏教徒として

ショーペンハウアー、ニーチェ 、エマーソンなど、自分が敬愛する思想家たちがことごとくインド哲学に関心を持ってサンスクリット語の文献を読んでいたことが本当に興味深い。そしてまた何かの偶然の一致と導きを感じる。ショーペンハウアーの思想についてもまたどこかのタイミングで時間を取ってさらに理解を深めていきたいが、彼の思想はまさに唯識思想から多大な影響を受けたものであることがわかる。オランダの哲学者バーナード・カストラップがよく言及しているように、ショペンハウアーの意志と表象の世界観は唯識のそれと瓜二つである。ニーチェ もまたキリスト教を批判するために仏教の思想を参照していたことは大変有名である。また、エマーソンはソローと同じく『バガヴァッド・ギーター』を愛読していたことで知られている。彼ら第一線級の思想家たちがこぞってインド哲学に関心を寄せた深層的な理由を考えてみなければなるまい。そこからインド哲学の意義と価値を考察していくことの重要性を感じる。

仮に今年の秋からハーバード神学大学院(HDS)で学びの機会を得ることになったら、世界の様々な宗教と深く対面することになるだろう。これまでもまずは文献ベースで世界の諸宗教について広く浅く学んでいたし、様々な国に旅行に出かけていくことを通じて種々の宗教に触れていた。しかしそれを超えて、HDSにはそれぞれの宗教を代表した学生たちが集うことになるので、彼らの生活に注目することを通じて、宗教がどのように生活に密着したものなのかを彼らとの交流や対話を通じて理解していきたいと思う。全ての宗教の究極的な真理は同一のものを指すという永遠の哲学的な発想を自分は持っているが、それと同時に、そうした基底価値に加えて、最近はやはり仏教の持つ深みに驚いてばかりである。他の宗教も実践的な指向性や学問的な指向性を幾分兼ね備えているが、仏教ほどにそれらを高次元で兼ね備えているものを自分は知らない。そこには倫理的な生き方に関する教えと実践もあり、自分が長らく求めていたものが全て仏教に詰まっていることを本当の意味で気づいて今感動している。正直なところ、これまで自分は宗教的な生き方がどのようなものであるかあまりピンと来ていなかった。信心深く生きるということの意味と具体的な在り方がわかっていなかったのである。しかしながら、今こうして仏教の奥深さに打たれてみると、ようやくそれがわかってきたのである。ここからは自らを仏教徒と名乗れるように、その学問的な探究だけではなく、倫理的な生き方を含めた仏教的実践に深く従事したいと思う。サイケデリック実践もまた自分にとってはれっきとした仏教的実践であり、その精神は瑜伽行唯識派の真髄と合致するものである。フローニンゲン:2024/2/17(土)04:25

12144. 瑜伽行唯識学派の思想研究に向けた言語学習の計画

この穏やかさ。早朝のこの静けさ。とにかくそうした平穏さと静寂さに感謝したい気持ちで一杯である。仏教を核とした信心深い生活を送っていくと誓って以降、毎日がとても贅沢な時の粒(つぶて)で満たされていることに気づく。例えば、今この瞬間に鳴き声を上げて飛び立っていった小鳥の鳴き声もまた一瞬に輝きを持たせてくれる贅沢な粒である。このリアリティの最小構成単位は素粒子でも超紐でもなく、充実感の粒なのだ。幸福感の粒なのだ。少なくとも自分の人生の一瞬一瞬、一刹那一刹那はそうした粒で満たされて輝いている。

先ほどトイレに行ってトイレから出た時に、今後の言語学習のステップが見えた。これまではインド哲学と仏教への関心から、サンスクリット語、パーリ語、チベット語、中国語を学んでいこうと大雑把に学習計画を立てていたが、どれから着手すればいいのかという順番についてはサンスクリット語を最優先にさせるということ以外決まっていなかった。しかし先ほどトイレから出た瞬間に、自分はまずはインド哲学の中でもインド仏教を研究し、さらに詳細に言えば、瑜伽行唯識学派の思想を研究するのだから、学ぶべき言語の順番としては、サンスクリット語、チベット語、中国語になると思われた。というのも、大乗仏教の唯識学派のサンスクリット語の重要な原典は、チベットと中国が国家プロジェクトとして翻訳をしたという歴史があり、その恩恵を受けるためにチベット語と中国語を学びたいと思ったのである。とにかく唯識思想の原典と重要な翻訳書を読みたいのであれば、サンスクリット語、チベット語、中国語は不可欠な言語になる。ここで自分が日本人であることの恩恵は、中国語についてはすでに玄奘が翻訳した『唯識三十頌』を眺めてみたときに、直感的になんとなく意味が掴めることである。漢語の輸入のおかげで、中国語の素養が自らに備わっていることを自覚し、中国語については文献読解で一番着手しやすい言語かと思った。パーリ語については今後上座仏教の経典に関心を持ったときに本格的に勉強を始めればいいかと思う。今はまずはサンスクリット語を勉強し、その次にチベット語を勉強しようと思っている。チベット語は元々、サンスクリット語で記された仏教の文献を翻訳するためにインドのブラーフミー文字から作られたと言われており、サンスクリット語を学んだ後であれば割と学びやすい言語なのかもしれない。ここからはサイケデリクスと唯識に関する探究に並行して、仏典読解のための言語学習も新たな楽しみとしたい。フローニンゲン:2024/2/17(土)05:04

12145. 川面凡児の神道神学と唯識思想・華厳思想の架橋に向けて

時刻はゆっくりと午前6時に向かいつつある。今日は第67回のゼミナールのクラスが午前中にあり、今日もまた川面凡児先生の神道思想を扱う。川面先生の神道思想を扱い始めてからゼミナールがまたこれまでとは違った盛り上がりを見せていることを嬉しく思う。自分にとってもそれが刺激となり、確かに今は大乗仏教の唯識思想の研究に最も焦点を当てているが、依然として神道思想への関心は高いままだ。むしろ唯識思想を学ぶにつれて神道思想への関心も高まっていると言える。日本を代表とする古神道の思想を大切にしたいという思い。そしてそれを実践を通じて深く理解したいという思いがある。幸にもその実践は、神道の思想に立脚する形でのサイケデリクスの摂取と瞑想実践という形式が自分にはある。唯識の思想が瑜伽行者(ヨーガ行者)の実践的な思想であることと同じく、古神道の真髄を理解するためにはその思想が高度に体現する世界観を感じ取る実践に従事する必要があるのだ。それは文献読解だけでは到底到達し得ないものかと思う。

そのようなことを考えながら、唯識について理解を深めていけばいくだけ、川面先生の神道思想への理解が深まってきていることを実感して、両者の相互作用について改めて注目していた。日本には独自の展開を見せた唯識法相教学があり、それと日本が世界に誇る古神道の思想を架橋させながら探究していくことは自分にとってとても魅力的に思えたのである。この試みがどこまでうまくいくかわからないが、自分の興味関心と直感に純粋に従って、まずは唯識思想についての全般的な理解を深め、そこから唯識法相教学の細部に入っていきたい。それと並行して少しずつ川面神道神学における意識論と宇宙論を学んでいきたい。ひょっとしたらその意識論は唯識思想とうまく対応させることができるかもしれないし、その宇宙論は華厳思想とうまく対応させることができるかもしれない。とにかく自分には横断的な思考、統合的な思考を持って学術研究と実践に従事したい。自分は橋を架ける人間なのだ。自分ではない誰かが渡って喜んでもらうための橋を架ける存在としてこれからも研究と実践に精進したい。フローニンゲン:2024/2/17(土)05:58

12146. 新たな自己と薫習/「出世」という言葉の歪曲/
多様な文化体験を通じた阿頼耶識の客体化と浄化      

新たな豊かなる自己の誕生は、自らの善行による薫習と新しい豊かな経験を通じた薫習を通じて実現されていく。日々の自らの1つ1つの行いが、他者や社会にとっての善につながっているだろうか。また自分自身は自らの心を清め、磨いていく豊かな経験を1つでも新しくその日に積んでいるだろうか。そうした内省的な視点を絶えず持って毎日を生きたい。その積み重ねが阿頼耶識への薫習となって、より一層豊かな自己を萌芽させる。

日常の日本語の中に仏教用語が遍満していることについて先日言及したように思う。先ほどふと、「出世」という言葉が本来の意味とは違って現代では使われてしまっているのではないかという問題意識を持った。本来出世とは、文字通り、世間を超越して我欲に囚われずに朗らかに生きることを意味していたはずである。ところが現在における出世とは、所属組織の中で地位を高め、自らの金銭的価値を高めていくことを指しているように思えて仕方ない。現在における出世とはすなわち、所属集団における自分の居場所の確保と、それにすがる形で利己心を満たすことを促すものになってしまっているのではないだろうか。本来の仏法の教えを逸脱し、原義を失ってしまって歪な意味が付与されてしまっている仏法用語がその他にもあるかもしれない。そうしたものに注意深くなり、本来の仏教用語の意味を回復させていくことは、日本社会の精神性の治癒と育成につながるのではないかと思う。

私たちはこの現実世界で何かを知覚する際に、唯識が述べる前五織を通じてそれを把握する前に、阿頼耶識がそれをまず知覚している。ここでは阿頼耶識が私たちが所属し、自らに刻み込んできた文化的世界観や価値観による影響を多分に受けることになる。端的には、私たちは自らの文化的背景を通じて染められた阿頼耶識のフィルターを通して世界を経験しているのである。ここから、自らの経験フィルターとしての阿頼耶識を客体し、淀みを浄化させていく試みとしての多様な文化的体験の重要性を思う。海外を旅行することや海外で生活すること、さらには外国語を学ぶことの唯識的な意義はそうしたところにあるのではないかと思う。おそらくここから自分はまた様々な国や町で生活することになるだろう。そこでは絶えずその土地に根付く固有の文化を全存在的に体験し、その体験が自らの文化的背景で淀んだ阿頼耶識の浄化と錬磨につながるのだと確信している。フローニンゲン:2024/2/17(土)08:50

12147. サイケデリクスと唯識思想の往復螺旋運動に集中して/「天気」より 

ここからの学習と実践は、兎にも角にもサイケデリクスと唯識思想の往復螺旋運動を通じて行われていくものになるだろう。自分は性格上、様々なことを学ぼうとし、様々な実践に手を出しがちだが、ここからしばらくの間は、サイケデリクスと唯識思想に意識を集中させる。そうした集中力を高めるためにも日々の瞑想実践が重要であり、ふとしたときに今の自分はサイケデリクスと唯識思想の研究と実践に集中して取り組めているだろうかと自問自答したい。それを繰り返していくと習慣となり、自分の学びの重心としてサイケデリクスと唯識思想が初めて顕現するであろう。それまでは常に楽しむ心を持ちながら、同時に集中してサイケデリクスと唯識思想に関する学びと実践を継続させていきたい。両者は兎にも角にも不可分の関係性を持っており、相互互恵的な性質を有する。すなわち、サイケデリクスについて学ぶことは唯識思想について学ぶことであり、唯識思想について学ぶことはサイケデリクスについて学ぶことなのだ。また、サイケデリック実践に従事することは唯識思想の実践に従事することであり、その逆もまた然りなのである。そうした形で絶えずサイケデリクスと唯識思想の相互不可分性を意識しながら学びと実践を愚直に続けていきたい。そうすれば、自然とそれら双方に関する深い経験知が蓄積され、それを通じて他者や社会に対して有意味に貢献できるようになってくるだろう。

気がつけば、時刻は午前9時半を迎えようとしている。あと30分ほどしたら、第67回のゼミナールのクラスが始まる。今日のクラスにはどなたが参加し、そこでどのような学びが実現されるか今からとても楽しみである。私たちの心は絶えず動く生命であるのと同じく、そんな心を持つ人たちが集まった今日のクラスも命の躍動が感じられるに違いない。それにしても今日は本当に良い天気だ。雲ひとつなく、見事な青空が広がり、朝日が燦然と地上に降り注いでいる。「天気」。なるほど、それは天の気持ちであったか。また、天のエネルギーとしての気だったのだ。自己は天でもあるから、天気は自分の気持ちとエネルギーを映しているのだ。今日の天気の良さは、今日の自己の良さを物語っている。しかし同時に、自己と天との不可分性に気づきながらも、天候に左右されない動的に躍動する自己の存在を自分はもう知っている。フローニンゲン:2024/2/17(土)09:23

12148. 「無想定」ではなく「滅尽定」を恐れていた自分      

早朝から天気が良いこともあって、気分もまた自然と晴れてくる。もうしばらく唯識に関する読書を楽しみ、そこから今日のゼミナールのクラスに関する振り返りの音声ファイルを作ってゼミの皆さんに共有しておきたいと思う。そしてまた少々読書をしたら、日本から届けられた唯識に関する書籍の残りを受け取りに近所の玩具屋に立ち寄ってこようと思う。今日は天気が良く、気温も10度を超えているのでとても気持ち良い散歩になるだろう。

学べば学ぶだけ自分について知ることになり、これまでのサイケデリック体験を多角的かつ詳細に振り返らせてくれる唯識思想。これは本当に自分の身の回りにいる日本人に伝えていくだけではなく、欧米で生活する自分としては欧米人にも共有したい。日本でも欧米でも唯識思想に関する知名度の低さは大して変わらず、自分はまずはサイケデリクスの文脈で、とりわけサイケデリック体験の咀嚼という実践における有用性と、サイケデリック実践を継続する際の道先案内人かつ羅針盤としての有用性を伝えていきたい。自分自身が本当に唯識思想に救われ、そしてさらなる成長を実現させてもらっているとすでに深々と実感している。むしろこれほどまでにそれを感じさせてくれる思想体系は他に知らない。成人発達理論やインテグラル理論を遥かに凌駕する形で自らの心の成長に寄与してくれていることを感じてやまないのだ。

今日は土曜日で、明日の日曜日を終えた次の日曜日には第27回のシロシビン・セッションを予定している。前回と前々回では実存的恐怖を感じる時間が体験の中にあったが、その正体がまた唯識思想の言葉でより鮮明なものになった。端的には自分は、ピーク体験における「無想定」ではなく「滅尽定」に恐怖を感じていたのだとわかったのである。より詳しく述べるならば、全六識の働きが全て消滅する体験にはさほど恐怖をもう感じないのだが、我執を司る第七織の末那識までもが機能を停止し、一定期間消滅する後者に恐怖を感じていたのである。今の自分はとにかくそこに限界があることを痛感させられた次第だ。

また、今日のゼミナールのクラスの中で出てきた自己の深層から素直に自己表現をするという「ソウルトーク」は、唯識思想の言葉で言えば無漏の智慧が働いている状態で、その間は末那識の我執執着機能が働かないのである。ゆえに邪険なく、朗らかな自己表現と対話が実現されると思ったのである。唯識思想は本当に学びと実践の宝庫であると深々と感じ、それを生み出し、発展させていくことに寄与してきた全ての先人に感謝したい気持ちで一杯である。自分はこれをサイケデリクスとの掛け合わせて紹介していかなければならない。フローニンゲン:2024/2/18(日)13:36

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