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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12086-12094:2024年2月10日(土)

⭐️成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスを扱っている「インテグラル·サイケデリックラジオ」の配信をしています。
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タイトル一覧

12086. 今朝方の夢

12087. 依言真如の実践道/今朝方の夢の続き

12088. 瑜伽行唯識学派の思想に惚れ込んで

12089. 唯識思想に関するよくある誤解

12090. ヨーガの語源/インド思想とサイコアクティブな物質の活用の関係性

12091. ハーバード神学大学院からオンライン面接の招待メールを受けて

12092. ハーバード神学大学院のオンライン面接に向けて

12093. 縁起と観自在について想いを馳せて

12094. ハーバード神学大学院のオンライン面接に向けての準備/善行への誓い

12086. 今朝方の夢     

時刻は午前4時半を迎えた。数日前には氷点下の日があったが、それ以降は気温が上がり、今日も比較的に暖かい1日になるようだ。早朝の今でさえ気温が8度もあり、日中は11度まで気温が上がる。週間天気予報を確認すると、来週には氷点下の日は全くなく、とても過ごしやすそうである。気づけば2月も中盤に入って来て、3月になるとまた暖かさが増すであろうから3月の訪れが楽しみである。

昨日の日記で書き留めていたように、今日からの夢の振り返りは禅の公案に取り組むような気持ちで向き合ってみる。形としてはこれまでの振り返りと同じようであったとしても、あまり理性的にならず、解釈で夢の豊かな意味や力を抑圧しないようにしたい。

今朝方は夢の中で、アメリカの名門大学の大学院に入学している場面があった。その日はちょうどオリエンテーションの日で、新しく大学院に入学した学生で溢れていた。そこは大学院だったので、新入生の顔ぶれは様々で、当然ながら年齢にも幅があった。若く見えるような人もいれば、かなり年配の人もいて、そうした多様性が学びを促進してくれる土壌を生むのだと感じていた。しばらく1人で校内をうろついていると、2人の男性教授と遭遇した。2人はこれから2年間の自分の学習メンターを務めてくれる方であり、挨拶をした。2人はニューヨークを舞台にした弁護士のテレビドラマシリーズに登場する俳優の2人に瓜二つで、まるで自分がそのドラマの中にいるような感覚にすらなった。そこからは2人とポカポカする昼下がりの校舎の外で話をした。コーヒーを片手にまずは私の方から自己紹介をし、自分の研究分野と関心について言及した。そこから博士課程への進学について検討していることを伝えると、2人はそれを全力で支援してくれると述べたので大変心強かった。片方の教授がふと、「うちの博士課程に進学したいなら、とにかくコネクションが大事だからね」ということを笑顔で述べた。おそらくどの名門大学でもそれは同じかもしれないが、自分はこの大学に在学中に教授とのコネクションを大切にし、深い関係性を作っておきたいと思った。すると、もう片方の教授が、「博士課程に進学したいのなら、リサーチアシスタントのポジションが空いてるけどどう?」と持ちかけてくれたのである。私はそのオファーをとても嬉しく思い、仕事内容を尋ねた。そのポジションはアシスタントとは言え、給料も支払われ、円安下の現在のドル円レートで言えば、年間に750-800万円ほどの給料になるようだった。そうした報酬を得ながら研究活動ができ、尚且つ博士課程の進学に向けて教授とのコネクションを構築できる最良の機会をいただいたように思ったので、オファーを受ける方向で話を進めていこうと思った。そのような夢を見ていた。

この夢にあるように、現在自分は欧米の大学の博士課程への進学を真剣に検討している。ようやく博士課程に進学して、博士論文を執筆するに値するテーマを見つけたのである。もちろんそのテーマも変化していく可能性はあるが、少なくとも意識哲学の研究をこれからも続けていき、その分野に関する博士論文を執筆したい。今はとりわけ瑜伽行唯識学派の思想に惚れ込んでおり、唯識思想に関連して博士論文を執筆できればと思う。夢の内容にもあったように、自分が本当に所属したい大学院に進学できたら、そこでの教授たちとのコネクションは本当に大切にしたいと思う。それもまた縁を大切にする実践に他らないと言えるだろう。フローニンゲン:2024/2/10(土)04:54

12087. 依言真如の実践道/今朝方の夢の続き 

依言(えごん)真如によって離言(りごん)真如に向かっていく。今はとにかく言葉を用いて徹底的に自己観察を続けている道を歩んでおり、それは依言真如の実践道を歩んでいることに他ならない。夢の振り返りも普段の日記もリサーチノートの執筆も、それらは全て言葉を通じて真理に至る依言真如の実践道を歩んでいるのであり、その歩みをとことんまでに突き詰めていき、言葉を離れた離言真如に到達できたらと思う。その極地に向けての歩みを今日もまた一歩前に進めたい。

先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるので、そちらについても依言真如の実践として振り返りをしておきたい。

夢の中で私は、母が運転する車の助手席に乗っていた。後部座席には父が乗っていて、3人で旅行に出かけているようだった。いつもは父が車を運転してくれていたのだが、その日はなぜか母が運転を担当していた。母はどこか緊張気味の表情をしていて、その理由はきっと父が母の運転に対して色々と口出しをするからだろうと思った。しかしその日は父は母の運転に対して何か口出しをすることはほとんどなく、大人しく後部座席に座っていた。高速を快調に走る車は順調に目的地の旅館に向かっていた。幸いにも高速にはほとんど車がなく、母も運転しやすいようだった。高速を無事に降りて、一般道を走ることになった途端、道が少し複雑で、目的地を目前にしながら、母にとっては最後の山場を迎えた感じであった。目的地間近の山道で、あわや対向車にぶつかりそうになるという危ないシーンもあったが、無事に旅館に到着することができたという夢を見ていた。

この夢の中で母はほとんど口を利かず、黙って黙々と運転していた。その真剣な表情から父も私もあまり母にちょっかいをかけないようにしていたのだと思われる。そう言えば、旅館に到着してからも夢の場面が幾分進行していたように思う。旅館に到着後、すぐに入浴するか、それとも夕食後に入浴するかを3人で話し合っていたように思う。結論としては先に入浴し、そこからゆっくりと夕食を食べることになった。その旅館は温泉と豪勢な食事で有名な場所でもあり、その双方が楽しみであった。

さて、今日もまた唯識を中心にして研究活動に没頭したい。午前中には第66回のゼミナールのクラスがあり、まずはそれまでの時間を読書に充てる。昨日は12冊ほどの書籍を受け取り、それら全てが唯識に関するものであるから、これから唯識研究三昧の日々を過ごせることが本当に楽しみで仕方ない。午後にも読書を進め、午後からはまた何冊か唯識の専門書を散歩がてら受け取りに行きたいと思う。フローニンゲン:2024/2/10(土)05:08

12088. 瑜伽行唯識学派の思想に惚れ込んで      

瑜伽行唯識学派の思想体系に虜になり、今はまさにこの思想体系に惚れ込む形で日々を幸福感と共に過ごすことができている。今はその探究に没頭する楽しみに満たされていて、今後はその学びを他者に共有する活動に積極的に従事したい。今進行しているゼミナールのテーマは神道に関するもので、それは5月頃まで続く予定であり、そのテーマが落ち着いたら唯識に関する課題図書を扱って、ゼミの受講生の皆さんと唯識について学びを深めていきたいと思う。ゼミで唯識を扱うまでにまだ随分と時間があるので、少なくともその期間の間に、唯識について修士号を取得できるぐらいにまで知識を深めておきたいと思う。そして唯識思想の最大の魅力はその実践価値にあるのであり、この期間に唯識を絶えず意識した内面探求実践を積み重ねていきたい。それは常日頃、四六時中行えるものである。自己の内面をとにかく観察していくこと。仏教用語である「観察」を自分の内面世界において徹底させていくもと。外の世界の観察を即自己の内面観察に転じていくこと。目に移る外界は自分の内面世界を映した姿でしかないのである。外を見れば内を見ることができ、内を見ればさらに深い内が見えてくる。唯識の実践適用の方向性はそれに尽きるのではないかと思う。

つくづくインドの大天才たちの功績には敬意を表し、畏怖の念を抱く。彼らが打ち立てた思想は、兎にも角にも瞑想という直接体験がベースにあって、そこから高度に推論を働かせ、論理を積み重ねていき、同じく瞑想実践と推論論理を積み重ねていった人たちとの協働対話によって構築されていったのである。そうしたインドゆかりの思想を学ぶ際には、とにかく私たち側にも瞑想実践なりの直接体験が必要であろう。インドの大天才たちは全てではないにせよ、伝承伝えで言えば、瞑想実践に加えて、カンナビスや何かしらのサイコアクティブな植物やキノコを摂取していたはずであり、そこでの深い意識体験の中で得られた洞察が彼らの思想の基盤にあるはずだ。インドの温暖な土壌で自生していたカンナビスやサイコアクティブな植物やキノコを彼らが有効活用しなかったと考えることの方がむしろ不自然であり、自然な形で森林に生息していたそれらの自然物を摂取しながら変性意識状態となり、自己観察を続けていたと考えるのは至極妥当ではないかと思う。彼らが展開した思想をよくよく眺めてみれば、それが通常の意識状態では閃かないようなものばかりであることは誰が見てもわかるはずである。そのようなことを考えながら、ここからインド思想及びそれに包摂される瑜伽行唯識学派の思想を学ぶ際には、徹底的な文献読解に加えて、自らも日々瞑想実践を行い、定期的なサイケデリクスの摂取を行っていきたいという気持ちを新たにする。自分の場合は主たるサイケデリクスはシロシビン・マッシュルームであり、カンナビスもいずれは併用して週に1回ぐらいは内面世界の探求目的で摂取するようになるかもしれない。フローニンゲン:2024/2/10(土)06:27

12089. 唯識思想に関するよくある誤解 

瑜伽行唯識学派の英語名は様々あり、“Yogacara School”と呼ばれたり、“Consciousness-Only”あるいは“Mind-Only”と呼ばれたりする。特に後者2つの呼び方の際には誤解を招きやすいので注意が必要かと思う。現在唯識思想に関する英語の書籍で手に入るものはほぼ全て購入してみたところ、大抵その解説の書き出しには、「唯識思想を単なる観念主義と混同しないように」という類の記述がある。西洋の哲学においては、「唯心論」というただ意識がある、ただ心があるという独我論にもつながっていく思想が古くからあり、それと唯識思想を混同してはならないということが口をすっぱくするように書かれているのである。今ここでは唯心論と唯識論の違いについては深追いをしないが、唯心論は元々唯物論の対抗論理として提唱されたという歴史があり、世界にはただ物だけがあるという唯物論に対抗する形で、世界にはただ心しかないという唯識論が提唱されたという理解は完全ではないが、大雑把な理解としてはそのように捉えておいてまずは問題ないかと思う。思想史を厳密に遡れば、それはかなり大雑把な理解だが、とりあえず今は唯物論と唯心論の対立構造があったとだけ書き留めておく。唯心論においては、認識論の範疇を超えて存在論の範疇においても「ただ心だけ」という思想を展開していく点に特徴がある。もちろん唯心論もナイーブなものからより洗練されたものまで質的差異があるのだが、最もナイーブなものは、私たちが認識するのは心によるという認識論を超えて、世界には物質は存在せず、それもまた心が生み出しているというような存在論的な議論が展開される。これは明らかにナイーブな議論であって、唯識論はそうしたナイーブな唯心論とは一線を画している。唯識論は一般的には難解と思われがちで、その発想は常識と少しズレるように捉えられているが、よくよくその思想を眺めてみると、至極真っ当な議論をしていることに気づく。唯識論は、私たちが世界を認識する方法は自らの意識しかないと述べており、物質の存在を否定しているわけではないことに注意が必要である。私たちの意識の外には物質や非物質も含めて様々な存在可能体が存在していることを認めながらも、それを認識するのは私たちの意識しかないという意味なのだ。これはとても当たり前のことを言っているように思えないだろうか。例えば、私たちが自分の身体について理解しようと思う時、確かに身体は物理的な世界に存在しているということを認めながらも、自らの身体を認識する手段は意識しかないことに気づくのではないだろうか。仮に身体を写真に収めて写真を眺めるという方法を採用したとしても、それは視覚意識を通じてであり、人伝えに自らの身体について話を聞く際には聴覚意識を通じて自らの身体を認識し、身体の匂いから身体を認識しようとするのであれば、嗅覚意識を通じてになる。はたまた何かしらの測定器具を使って身体を理解しようとしても、そのデータを解釈するのは私たちの意識なのだ。どこまでいっても意識、意識。自己と世界を認識する手段はただ(唯)意識しかないということ。それが唯識思想の根底に流れている発想なのだ。ゆえに、存在論的には物質なども認識の外に存在すると認めながらも、それを認識するのはただ意識しかないという極めて常識的な認識論を採用しているのが唯識論かと思う。この極めて常識的な認識論をベースに、自己と世界を認識する意識の特性と機能を無意識の次元に至るまで詳細に分析していったのが瑜伽行唯識学派の思想なのである。このように書き出してみると、唯識に対する認識がまた明瞭なものになった。自分が思う唯識思想もまた自らの意識が生み出したものなのだ。自分の内面世界に生起する唯識思想について、ここからも絶えず内省をしてその姿をより真理に近づけていきたいと思う。フローニンゲン:2024/2/10(土)06:44

12090. ヨーガの語源/インド思想とサイコアクティブな物質の活用の関係性

ヨーガの語源はもともと「軛(くびき)」という言葉であり、ヨーガは心と身体をつなぎとめ、心身一体を目指すものである。そして心身一体を超えて、今度は自己と自己の深層部をつなぎとめるということを大切にする。私たちの苦しみの大半は、自分自身とのつながりの欠如から生まれ、心身の様々な病理もまた自己とのつながりの欠如から生じる。ヨーガにおいては自分自身と深くつながる智慧と方法を学んでいくことになる。インド思想において注目しているサーンキヤ学派とヴェーダンタ学派の影響を受けたヨーガ学派の思想に注目しているのは、自己とのつながりを取り戻し、そのつながりを深めていく智慧と方法をそれが授けてくれるからである。また、ヨーガの思想を大切にした大乗仏教瑜伽行唯識学派に注目しているのも同様の理由によるところが大きい。

世親ことヴァスバンドゥの7つの作品が収められた“Seven works of Vasubandhu: The Buddhist psychological doctor (2nd. ed.)”を読み始めてみたところ、ヴァスバンドゥへの関心が高まるばかりである。ヴァスバンドゥは一貫して瞑想実践の大切さを様々な書物の中で言及しており、そこにサイケデリクスへの言及はないだろうかと関心を持っている。おそらく言及はなさそうなのだが、瞑想に関する分厚い記述はサイケデリクスの実践と体験解釈に役に立つだろう。瑜伽行唯識学派の思想はヨーガを根底に置いており、その思想に多大な影響を与えたであろうヨーガ学派の聖典である『ヨーガ・スートラ』には、サイコアクティブな物質の使用に関する言及が第4章第1節にある。ヴェーダにもソーマへの記述があったが、それ以外において詳しくサイコアクティブな物質への言及がなされている文献が存在していないように思えるのはどういう理由からなのだろうか。とりわけ唯識思想に関する経典の中でその記述が見られなさそうなのは、そもそもサイコアクティブな物質を使用していないという可能性に加えて、サイコアクティブな物質を瞑想実践と併用して活用することが当たり前で、それをわざわざ記述するのがバカらしいという可能性があるように思える。瞑想実践が主で、その効力を高める従属的な存在としてサイコアクティブな物質が捉えられていたのであれば、確かに文献にわざわざ書き残す必要もないかと思われる。当時においてはサイコアクティブな物質はどれも自然物であったから、水や空気のようなものであり、それらを摂取して瞑想を深めることが当たり前であれば、わざわざその当たり前なことを詳細に論じる必要などなかった可能性も考えられる。インド思想及びインド仏教の発展において、瞑想とサイコアクティブな物質がどのように関係していたのかについてはもう一度資料調査を行いたいと思う。フローニンゲン:2024/2/10(土)07:31

12091. ハーバード神学大学院からオンライン面接の招待メールを受けて

時刻はゆっくりと午前9時に近づいてきている。午前10時からのゼミに向けて準備をし、何か確認しておくべきメールはないかとチェックしたところ、嬉しいことにハーバード神学大学院(HDS)からオンライン面接の招待メールが届いた。米国東海岸との時差の都合上、昨夜の段階ではそのメールに気づくことはできず、先ほどそれに気づいた次第である。

正直なところ、オンライン面接の招待が届くことを首を長くして待っていたし、果たして書類審査に通過するのかという懸念もあった。切望と不安を払拭するような形でオンライン面接の招待メールを得られたことを本当に嬉しく思う。もちろんこの招待は合格を確約するものではなないのだが、書類審査を通過しなければ招待が得られないことは確かであり、とにかく一歩前進したことは間違いない。今日のゼミナールのクラスを終えてからは、唯識思想の研究に並行して、面接に向けて入念な準備をしていきたい。ここから数日間は唯識研究を離れてもいいぐらいに面接に向けた最善の準備をしたいと思う。あまり肩肘張る必要はないと思うが、千載一遇のチャンスであることは間違いなく、こうして得られた面接の機会を最良のものとしたいので、今の自分にできる限りの準備をしたいと思う。とりあえずは、自分のスケジュールを見て、面接日の日時の予約を後ほどしておきたいと思う。面接の日時が決まれば、それに向けてどのように過ごしていけばいいのかが明確になるであろうから、予約は早めにしておきたい。

昨年の11月にHDSのキャンパスビジットをし、そこで丸一日をかけたプログラム説明会に参加して本当に良かったと思う。それはHDSの雰囲気を肌で感じられただけではなく、今回面接を担当してくださる3人のアドミッションオフィスの方々とはすでに挨拶を交わし、1対1での会話をしていたからである。特にアドミッションオフィスのディレクターのオデイヴィズさんやアソシエイトディレクターのマーガレットさんには時間を取ってもらって現地で色々と話をさせていただいていたので、仮に2人とオンライン面接の場で再会できることができたら幸いである。面接の結果がどうなるかはさておき、わざわざ時間を取って自分とオンラインで面接をしてくださることに感謝の念を持ち、できる限りの準備をして面接に臨みたい。溢れんばかりの感謝の気持ちと面接に向けた気力の高まりを感じる。フローニンゲン:2024/2/10(土)09:02

12092. ハーバード神学大学院のオンライン面接に向けて     

時刻は午後1時を過ぎたところである。つい今し方仮眠から目覚め、ここから午後の活動に取り組んでいこうと思う。今日の午前中には第66回のゼミナールのクラスが行われた。川面凡児先生の神道思想を扱い始めて、今回が3回目となるが、ここまでのところ受講生の方々と深い学びが実現されているように感じられ、何よりだと思う。現在の自分自身の唯識思想への関心と重ね合わせながら神道を学んでいくことによって、両者の理解が重層的なものになっている。川面凡児先生の神道神学を単体で学んできたときには得られなかった学びがこうして得られているのも、唯識思想という枠組のおかげであろうし、受講生の方々との対話のおかげであろう。今日もまた意義深い学びの時間を過ごさせてもらったことに深く感謝である。

今日はこれから唯識に関する書籍を読むことは一旦傍に置き、まずは今日のクラスの振り返り音声を今から作りたい。それが終われば、ハーバード神学大学院のオンライン面接に向けて準備を早速進めていきいたいと思う。ゼミのクラスが始まる前に、インタビューの日時を確定した。できれば木曜日のパーソナルトレーニングでのトレーニングを終え、身体を整えた後の翌日の金曜日が理想であったが、金曜日の枠がすでに埋まっていたので、木曜日のオランダ時間の夕方の時間帯にインタビューをしてもらうことにした。さてここからはインタビューでの想定質問を自分で列挙していき、それに対して自らの回答を準備したい。もちろん当日に何を聞かれるのかは分からないが、想定される質問については既に考えておき、それに対する自分なりの明確な回答をその場でクリアに伝えられるようにできる限りの準備をしたい。面接官の方もわざわざ自分のために面接の時間を取ってくれるのだから、その方の時間を無駄にしないためにも最善の準備をするというのは当然の誠意なのではないかと思う。インタビューの時間は15分と短く、面接官からの質問だけではなく、こちらからも最後に質問を投げかける時間があるとのことである。今のところこちらからの質問としては大きく分けて2つあり、博士課程の進学に向けての話と、プログラムで要求されている宗教文献の読解のためのlanguage studyの具体的な内容についてである。前者に関しては、修士課程から博士課程の進学に向けて最も重要なことは何かを尋ねてみることと、language studyについては、例えばサンスクリット語のコースの進め方などについても尋ねておきたい。language studyについての質問はもう少し練ったものにしておこうと思う。またその他に面接官に聞いておきたいことがないかに思いを巡らせておこうと思う。あるとすればやはり博士課程への進学可能性の話やサイケデリック研究関係の話になるだろうか。フローニンゲン:2024/2/10(土)13:24

12093. 縁起と観自在について想いを馳せて

時刻はゆっくりと午後4時を迎えようとしている。つい先ほど、書籍の受け取りを2箇所で行ってきた。まずは近所のショッピングモールに行って、プリンストン大学出版から出版されている1100ページほどの仏教用語辞典を受け取った。これはもう全ての語彙を暗記するぐらいに読み込んでいきたい。用語辞典を受け取ってからはいつもお世話になっている玩具屋に行き、唯識関係の書籍を数冊ほど受け取った。こうして自分が学術研究に打ち込めているのも、そもそも書籍のおかげであり、著者のおかげであり、書物を受け取ってくれる保管所のおかげであり、配達者のおかげでありと、感謝の対象の縁起が拡張されていく。自分という存在は無数の他者の存在とその縁によって成り立っていることがわかって深々とした感謝の念が自然と湧いてくる。

今朝方に嬉しい知らせとしてハーバード神学大学院からオンライン面接の招待を受けて、心がより穏やかになり、幸福さに包まれていたからか、先ほどの外出の際に見える景色がいつも以上に平穏で輝いていたように見える。本当に自分の見える世界は唯識なのだということがわかる。遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)としての主客二分的な世界の眺め方ではなく、自分を取り巻く世界が縁起による豊かな相で成り立っているという依他起性(えたきしょう)を実感し、主客二分の見方を離れて、世界をありのままに眺めるような円成実性(えんじょうじっしょう)を体現するような形で世界を眺めている自分がいた。これはおそらく一時的な意識状態がもたらす現象だと思うが、いずれにせよ、自分のこれからの人生を大きに開く可能性を持つ良い知らせを受けて、こうも世界が変わって見えることに驚き、それは既に唯識思想が説明していることでもある点に改めて気づいて感銘を受ける。

それ以外にも、「観自在菩薩」について考えていた。前回のゼミナールのクラスの振り返りとして、ある受講生の方が、「~観」についての重要さについて言及しておられ、とりわけ観察の大切さについて文章を書いておられたことが影響して観自在菩薩に思いを巡らせていたのだと思う。まさにその名前が象徴するように、観自在菩薩はどこか特定の視点に固着することなく、何の囚われなしに自由自在に自己と世界を観察できた存在なのだと思う。自分もこれから精一杯精進することを通じて、少しでもそのような境地に達することができたらと思う。本当の自由というのは、金や地位や名誉を得ることで得られるのではなく、何か物を獲得することによって得られるのでもなく、自らの物の見方を何にも囚われずにどれだけ自由自在に働かせることができるかなのだと思う。自分の物の見方が己の内面世界を形作る。自分の内面世界を歪んだものにするのも、限定的なものにするのも、はたまた清く美しく、そして自由なものにするのも自らの物の見方次第なのだ。そのような意味で、観自在の境地に向かって日々精進していきたいと改めて思った次第である。この考えに思いを巡らせるきっかけになった受講生の方のコメントに感謝し、この考えを届けてくれた場所としての散歩道にも感謝したい。フローニンゲン:2024/2/10(土)16:03

12094. ハーバード神学大学院のオンライン面接に向けての準備/
善行への誓い       

穏やかな夕方の世界に小鳥たちの囀りが聞こえてくる。それは心をさらに落ち着かせてくれ、ちょうど瞑想を終えた後の自分の心の頬を優しく撫でていく。

ここから来週の木曜日のハーバード神学大学院のオンライン面接に向けては、唯識に関する学習は一旦傍に置いておいた方がいいかと思った。兎にも角にもこの千載一遇の機会を逃さず、わずか15分の面接に全てを込めるために事前準備を念入りにすることを優先させたい。その準備が仮にひと段落ついていたら唯識の学習を前に進めていけばいい。ちょうど明日には第26回のシロシビン・セッションがあり、来週は日本からの来客があるので、訪問される方たちと過ごす時間がある。ちょうどオンライン面接の前日が来客の方たちとゆっくり時間を過ごす日になる。そうしたことを考えてみると、やはりまずはオンライン面接に向けてしっかりとした準備をしておきたいと思う。順番としては、想定質問リストを自ら作り、それに対する自分なりの回答を話し言葉を文章にした形でアウトプットしておく。そして、提出した職歴書・学歴書、志望動機書、研究企画書などを読み返し、提出した書類に関しては何でも答えられるようにしておく。おそらく、既に提出した書類に関して根掘り葉掘り聞かれるというよりも、より一般化された質問をされるのではないかと思う。自分から面接官への質問時間を考えると、向こうからの質問時間は最大12分ぐらいであり、冒頭の挨拶などを含めると、相手方からの質問は正味10分ほどになるだろう。その10分の間で受ける質問は、ある意味定型化されたものだと思われるので、尚更事前の想定質問リストの作成と、それに対する自分なりの回答の準備が大事になるかと思う。今から夕食準備の間も想定質問リストの作成に時間を充てよう。

先ほど書籍の受け取りのために外出して散歩をしていた際に、ノーダープラントソン公園を横切りながら自分なりの善行について考えていた。自分に与えられたこの貴重な命もまた、この世界全体という大海の泡沫的一滴である。そんな命を通じて、自分は生きている間にどのようなことが自他に対して、そしてこの世界に対してできるかを考えていた。今の自分の死生観においては、肉体の消滅と共に今の自分が思うこの自己は消滅する。厳密にはこの自我とアイデンディティは消滅する。しかしながら、大海の泡沫はまた海に戻っていくという梵我一如的な発想を自分は持っていて、その考えに基づけば、自らが生きている間のすべての行いは死後においても溶け還った大海の中で生き続け、それがまた泡沫の命を授かった他者と大海という世界そのものに対して影響を与え続けるのだと思う。すなわち自分は、あの世に持っていけるものとして、自らが積み重ねていった行と業があるのではないかと思い、ここからの人生においては可能な限りで善行を積んでいき、良き業を残していきたいと思った次第である。あの世には金も名誉も地位も持っていくことはできない。購入した高級品も持っていくことができない。あの世に持っていくことは自らが積んだ善行だけなのだと思う。おそらくその善行の集合体のことを魂というのかもしれないし、霊というのかもしれない。真我を表すアートマンというのもまた、結局のところは行と業の最も純化した集合体なのではないかと思う。やはりそれは永遠に不滅であり、それは世界そのものを指すブラフマンと合一し、未来永劫他者と社会に大なり小なりの影響を与え続けるであろう。ここからの自分の生き方はもう定まった。今の身の丈にあった最大限の善行を積んでいくこと。兎にも角にもそれを心がけて他者と接し、この社会に対して自分ができることを行っていこうと誓った。フローニンゲン:2024/2/10(土)16:32

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