5980. 本日の中土井遼さんとの対談によって紐解いていただいたもの

つい先ほど、近所のスーパーから帰ってきた。その時に、気分転換として、いや内側に留まり続けているの1つの体験を味わうために、少しばかり近くの運河沿いをジョギングしていた。

買い物にいく前まで行っていたのは、アントレプレナーファクトリーさんの後援のもとに行わせていただいた、知人の中土井遼さんとの対談であった。この対談が自分にもたらしてくれたもの、気づかせてくれたものはあまりにも多く、ここで全てを書き切ることはできない。またそうしてしまうことで何か大切なものがこぼれ落ちてしまうような感覚もある。

対談の冒頭で中土井さんがおっしゃっていた、「何かが紐解かれていく場になれば」という言葉の通りのことが自分の中で起きた。今回、Zoomでの対談は自分にとって初めての体験であり、オンラインでの対談そのものも振り返れば3年前に一度行わせていただいたことがあるぐらいだ。そうしたことから、自分にとっても未知の体験をさせていただく場を与えていただいたことに本当に感謝している。

参加者の皆さんのコメントや質問を改めて眺めてみると、本日の対談の中で、私の説明不足の箇所が多々あったことに気づく。私は、分断化·矮小化されてしまった物語の蔓延について問題意識を持っており、何も真を司る領域の実践や物質的なものを蔑ろにしているわけではない。

真の領域を司る物質そのもの及び客観的に目に見える形での種々の実践や取り組みを大切にしつつ、そうした真の領域にある存在をより深く認めることや実践をさらに深めていくことを行っていくのと同時に、「忘れてしまった」さらには「忘れさせられてしまった」善や美の領域にも認識の光を当て、それらの領域の実践に乗り出していく必要があるのではないかという問題意識を持っていた。

私が善や美の領域に光を当て、その領域を通じた実践をすることの大切さを伝えさせていただいた後に、対談相手の中土井さんから、「それらは自分を晒さざるを得ない感覚がありますね」という非常に洞察の深いコメントをいただいた。これに加えて、参加者のある方からのコメントにおいて、それでは善や美に関する具体的な実践をどのように始めればいいのか?という問いをいただいた。

これは秀逸な問いであり、それこそが今の私の最大の関心事項だと言っていいかもしれない。中土井さんがご指摘してくださったように、これまで学習捨象·実践捨象の領域であった善や美の実践を始めることを唐突に提案しても、それは実効性に乏しいだろう。

おそらくそれは、海に一度も入ったことのない人に対して——さらには、これまで海の存在を知らなかった人に対して——、いきなり海に飛び込めと言っているようなものである。私はそこで、哲学者のヨルゲン·ハーバマスが提唱した「公共空間(public sphere)」というものを私たちの社会の中に確立させていくことが先決なのではないかと考えている。

言い換えるならば、いきなり善や美の領域に人々を投げ込むのではなく、善的·美的公共空間の確立を優先して行う必要があるのではないかということである。もちろんそれは、引き続き真の領域の探究と実践を継続していく中で行っていくものであり、確かにそれは課題レベルが高いものかもしれない。

ここで仮に善や美の領域だけに着目してしまうこともまた、別種の視野狭窄である。中土井さんが挙げてくださった例で言えば、自然災害の場において、善や美を議論する前に、そもそも物質的な支援を最優先させる必要があることは間違いない。

ここで仮に、善や美だけに着目してしまい、例えば「信じれば救われる」という発想だけを提示するというのは、未熟な内面主義者や似非スピリチャリストの発想だと思う。そうした発想ではなくて、真の領域に立脚した支援を行いながらも、それを善や美の領域を考慮に入れながら行っていく必要があるのではないかという問題意識を持っている。

例えば、被災地に物資を単に提供するのではなく、それは必ず善や美の領域を絡めた形で行えるはずであり、そうした真善美のどれも蔑ろにしない形の行動を行っていくことが大切なのではないだろうか。

そうしたことを考えながら、それでは善的·美的公共空間というものが何なのかについて改めて考えてみると、それはこれまで忘れていた·忘れさせられていた善や美に関するテーマやトピックについて、今の自分の立ち位置から安心して対話をすることができる物理的かつ精神的な対話空間として私は捉えている。前者は対話を提供する物理的な場所として顕現し、後者は対話を支えながらにしてそれを育む風土として顕現するだろう。

今自分が最大の関心を持っている探究·実践領域というのは実践美学(+実践倫理学)·実践霊性学とでも呼べるようなものであり、前者は美学者の今道友信先生の思想やハーバマス及びイギリスの哲学者ロイ·バスカーの思想を汲み取りながら、後者については本日の対談の中やコメントの中にあったように、クリシュナムルティ、シュタイナー、鈴木大拙などの思想を汲み取ったものになるだろうと思われる。

これまで探究していた成人発達理論・発達科学、そしてインテグラル理論を超えて含む形で、それらの新たな領域の探究と実践を開始し、真善美のどの領域も蔑ろにしない公共空間の創出に向けた取り組みをしていこうと思う。

本日の中土井さんとの対話は、ここからまた自分が新たな探究·実践領域に乗り出していくことの後押しをしてくださったものであり、それに対する感謝の念と、同時に、本日ご参加いただいた数多くの方からのコメントや質問による刺激と啓発に大変感謝している。フローニンゲン:2020/7/10(金)15:39

【追記】
実はこれまで一度もしたことがなかったのだが、私は何かに促されるかのように、そして導かれるように、今回のオンライン対談イベントに両親を招待していた。

対談の最中に、両親の姿がちらりと目に入り、深い安心感のようなものを感じた。また、父と母が交代交代に抱きかかえていた愛犬の姿を見た時に、そこに愛犬の命の温もりのようなものを感じた。

日本とオランダで遠く離れていても、そしてオンライン空間を隔てたものであったとしても、命ある存在者に流れる固有の温もりと固有の基底価値(ground value)を改めて実感し、それらを大切にしていくことの重要性を改めて思った。

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