【サイケデリック学・意識哲学探究記】12108-12113:2024年2月12日(月)
タイトル一覧
12108. 昨日の第26回シロシビン・セッションを振り返って
12109. 第26回シロシビン・セッション後の夢
12110. 阿頼耶識の浄化と阿摩羅識の醸成に向けて
12111. 世親の倶舎論と唯識論/原点回帰とここからの歩み
12112. ハーバード神学大学院のオンライン面接に向けての準備をして/立ちながらの音読
12113. シロシビン・セッション後の筋力トレーニングを終えて/ここからのシロシビン・セッションの目的
12108. 昨日の第26回シロシビン・セッションを振り返って
時刻は午前4時を迎えた。昨日の第26回シロシビン・セッションを終え、生まれ変わった自己がここにいる。セッションが終わり、一夜が明けてみればまたこれまでの自分とあまり変わらないように思えるかもしれないが、確かな変化がそこにある。心のあり様が違うのだ。受け取る人生ではなく、与える人生が今日から本格的に始まる。何か大きな事を成すのではなく、日々接する人たちに対して絶えず与えるという精神で生きるのである。昨日のセッションも途中は本当に過酷であったが、最大の教えはそれだった。与えることの大切さ。自らの宿業を背負いながら善行を積んでいくこと。それが自分の人生の糧となる。
そう言えば、昨日のセッションの中で、言語脳の切り替えが尋常ではない速度で行われる場面があった。端的には、英語と日本語を即座に自由自在に切り替えられる脳があったのである。そしてひとたび日本語から英語に切り替えてみると、完全なる切り替えが実現していて、セッションの後半あたりではずっと英語で流暢に考え事をしていた。「英語脳が通った」という感覚であった。これまで欧米で12年ほど生活する中で、確かにもう英語で苦労することはなくなり、英語脳が出来上がっていたと言えるかもしれないが、昨日のセッションの体験ではさらにその次元が上がったように思えた。もはやネイティブに限りなく近い英語運搬能力を獲得している自分がいたのである。シロシビンとそれが変換されたシロシンのおかげで脳の可塑性が極度に高まり、言語野にも良い影響が与えられたのだろう。これまでもセッションのたびごとに脳が再起動し、神経細胞に溜められていたゴミが消えていき、脳がものすごく活性化されることは常に経験して来たが、昨日は言語野の目覚めが起こったようである。特に英語脳の目覚めがあり、日本語と英語の切り替えのより優れたスイッチ回路が構築され、その切り替えがこれまで以上に瞬間的なものになったように思えた。それを実証するために、今日もまた英語で物を考える時間をゆっくり取りたいと思う。ちょうど午前中には、ハーバード神学大学院のオンライン面接に向けての準備をするので、その時には完全に英語脳に切り替え、スピーキングとライティングでどのような力が発揮されるのかを観察してみようと思う。総じて昨日のセッションは苦しいものだったが、生き方についての大きな見直しがあったし、言語脳への肯定的な影響など、実利的な副産物があったことは喜ばしいことであった。フローニンゲン:2024/2/12(月)04:29
12109. 第26回シロシビン・セッション後の夢
シロシビン・セッションを終えた今日は天気が良いようだ。今の気温は6度あり、ここから午前8時にかけて1度ほど気温が下がるようだが、日中は8度まで気温が上がるので寒さはほとんど感じないだろう。今週は水曜日に日本からの来客の方々とお会いするため、毎週水曜日に収録している「インテグラル・サイケデリックラジオ」の収録は本日の午後に行う。1時間半ほどの収録を終えたら、速やかにジムに行き、今日も良い汗をかいてこようと思う。今の気温から、筋力トレーニング中は汗はかかないが、最後の有酸素運動の時にはしっかり汗をかくので、その爽快感を味わいに今日もまたジムに足を運ぼう。
シロシビン・セッション後に見ていた夢について早速振り返っておこう。夢の中の私は、真言について関心を持ち、それについて調べ、それを唱えていた。静かな気持ちで真言を唱えていると、ふっと場面が変わり、気がつけば見慣れない広大な学校の中にいた。そこはおそらく中高一貫校のようで、その日は中学生と高校生が入り混じってのスポーツフェスティバルが行われていた。一番下の学年である中学1年生と一番上の学年である高校3年生とでは、子供と大人ほどの体格差があるため、試合として成り立たないようなものもあったが、総じて全校生徒楽しんでいるようだった。しばらく広大な敷地内を歩いていると、後ろから後輩の女子生徒に声を掛けられ、「いつか必ずオリンピック選手のトレーナーになってくださいね」と言われた。どうやら自分は彼女からトレーナーになることを期待されているようだったが、自分の能力や関心を考えてみた時に、そのような日はやってこないだろうと思い、話半分に彼女に返事をした。そこからまた1人で歩いていると、工事中の小さなグラウンドに行き着いた。そこではブルドーザーやトラックが行ったり来たりしており、土埃が舞っていて、あまり空気が綺麗ではないなと感じた。なので近くにあった体育館に逃げ込むように中に入った。するとそこでは白熱したバスケの試合が行われており、しばらく試合を観戦した。試合を見ていると自分も体を動かしたくなって来て、いてもたってもいられなくなったので、 外に出てまた歩き始めた。その瞬間に自分の居場所が変わり、瞬間移動する形で職員室の中にいた。そこではスポーツフェスティバルの打ち上げが行われていた。職員室にもかかわらず先生は誰1人としておらず、高校3年生の生徒だけで打ち上げが行われていたのである。そこに高校時代の野球部の友人がいて、彼と魚のフライを食べることにした。すると彼が「ビールでも飲もう!」と言って、職員室の冷蔵庫からビール瓶を1本取り出した。最初は一口だけでもと思ったが、自分はアルコールを控えているので水にすることにした。そのような夢を見ていた。
学校の敷地は広大だったが、様々な施設がごった混ぜになっていて、敷地内を歩いて目的の場所に行くのは大変だったように思う。いや夢の中の自分はそもそも目的地など設定しておらず、自由気ままに散策をしていたように思う。混沌を楽しむ心の余裕があったのもまた昨日のシロシビン・セッションのおかげだろう。フローニンゲン:2024/2/12(月)04:49
12110. 阿頼耶識の浄化と阿摩羅識の醸成に向けて
時刻は午前5時半を迎えた。この日記を書き終えたらモーニングコーヒーを淹れよう。ゆったりとした気持ちでモーニングコーヒーを淹れ、その香りを楽しみながらコーヒーをちびちびと時間をかけて飲むのは朝の最良の楽しみの1つである。その楽しみに添える形でもう1つの最良の楽しみである学術研究がある。今日はまずハーバード神学大学院のオンライン面接の準備の前に、午後から行うラジオの収録で扱う課題図書の該当箇所を読み返しておきたいと思う。3章分の分量があるが、重要なポイントを押さえ、ラジオの中での流れを見て何を場に出していくかをその場で即興的に判断していこうと思う。そもそもラジオの場ではそこでふと生まれたトピックを扱う方が面白いこともあり、書籍の内容に縛られる必要はない。しかしながら事前準備はできるだけしっかりしておく。それはラジオの内容を下支えする意味もあるし、そもそも意識哲学の研究者としてこの分野の課題図書を読んでおくことは自らにとっても重要になる。さて今日のラジオではどのようなことを自分は与えることができるのだろうか。自らの言霊を発することがいつか他者にとって役に立つ行為に昇華されて欲しいと思う。それに向けて懺悔道と感謝道の中道を歩みながら絶えず精進していくのみである。
ここ最近はインド思想を起点にして、仏教を学ぶことに力を入れているので、業への意識が高まっている。おそらくそれが影響して、直近2回のシロシビン・セッションでは自らの深層的な業に直面することが多くなっているのだと思われる。自分がこれまで行って来たことは全て種子となって阿頼耶識に格納され、それが本質的なシャドーとしての業を生んでいるのだと気づかされる。シャドーワークというのは阿頼耶識における種子を対象としたものだったのである。仏法によれば、50ほどにも及ぶ悟りの段階の47段階以降においては阿頼耶識という言葉はもう使わなくなるようだ。そこで初めて「阿摩羅識(あまらしき)」という言葉を使うのだろうか。阿摩羅識は、阿頼耶識が煩悩を離れて完全に浄化された汚れなき清浄な識のことを指す。シャドーワークに終わりはないと言われるが、仮にその終わりらしきものを想定するのであれば、阿頼耶識が阿摩羅識に転じられた時だろう。ここから自分は、自らがなしてきた数々の業と向き合い、集合的な宿業とも向き合いながら、他者と社会のために自らの阿頼耶識を清浄化させていく取り組みを少しずつ進めていきたい。仏法の学習とシロシビン・セッションはそれを実現する代替のきかない存在である。フローニンゲン:2024/2/12(月)05:48
12111. 世親の倶舎論と唯識論/原点回帰とここからの歩み
モーニングコーヒーを今し方淹れたところであり、その良い香りが書斎の中に充満している。コーヒーの香りに包まれながら、午前中の活動に取り掛かっていこう。本格的に活動に取りかかり始める時刻はがまだ午前6時であることが嬉しい。ここから昼まで集中することによって、自分はまた他者に何かを与えるために前進することができるのである。自分のための前進ではなく、他者のために自分はこれからも歩き続けていくのだ。
一昨日、唯識思想を完成させた世親について考えていた。世親はその前の大事業として倶舎論を完成させた。どうやらその倶舎論は世親が悟りを開く前の段階での業績らしく、意識論に関しては問題があるようだ。また、常識的な世界観で理解しやすいのが倶舎論とのことであり、ちょうど先日届いた世親の倶舎論を読んでみてそれを確かめてみたいと思う。一方の唯識論は、常識的な発想を超えた思考の枠組みを獲得していないと理解が難しいという特徴がある。その特徴と発達心理学の発見事項を絡めると、慣習的段階(conventional stage)の意識段階において理解ができるのが倶舎論であり、唯識論は後慣習的段階(post-conventional stage)の意識段階を要求する教えだと言えるかもしれない。そうした意識段階に到達しているか、瞑想実践を継続して深い意識変容体験をしたことがあったり、何かしらのサイケデリクスを摂取して意識の深みを体験したことのある人であれば、すなわち一時的な意識状態として唯識の世界観と合致する意識世界に入ったことのある人であれば、唯識論は理解しやすいのかもしれない。仏教と発達心理学はそのように関係していく。仏教はそもそも悟りに至るまでの心の成長道を詳細に分析した発達心理学でもあるのだ。西洋の発達心理学と共通する部分も多分にありながら、仏教のオリジナリティが体現された発達心理学がそこにある。今こうして仏教に強い関心を示して専門書を読み漁っている自分がいるのも何かの導きだろう。仏教の本格的な探究の前に西洋の発達心理学を通過したというところに大きな意味があるように思える。仏教の風土が根付く日本の中で育ち、日本を飛び出してアメリカとオランダで発達心理学を修め、それを受けて仏教に原点回帰して来たという見方もできるかもしれない。自分は原点に戻って来たのである。今週の木曜日に行われるハーバード神学大学院のオンライン面接をうまく通過すれば、自分はまたアメリカの地で生活し、そこで仏教を含めた東洋の意識哲学を深く学んでいく。おそらく今度アメリカに足を踏み入れたら、東洋の意識哲学を修めるまではアメリカの地を離れないのではないかという直感が既にある。フローニンゲン:2024/2/12(月)06:19
12112.ハーバード神学大学院のオンライン面接に向けての準備をして/
立ちながらの音読
時刻は午前10時半を迎えた。月曜日の朝の時間が穏やかに進行している。小鳥の鳴き声が時折聞こえて来て、それに耳を傾けていると、ホッとした気持ちになる。ここでも自分は小鳥から美しい声を受け取っているのだ。そんな自分はこの世界に何を与えることができるのだろうか。無闇矢鱈に何かを与えるのではなく、必要な人に必要なものを届けられるような人になりたいと思う。世界にとって必要なものを届けること。自分はそうした人間になれるようにこれから少しずつ歩みを進めていく。
ここまでの時間は兎にも角にも木曜日に行われるハーバード神学大学院のオンライン面接に向けて準備をしていた。インタビューの招待の際にアドミッションから参考にすると良いと言われた情報に目を通し、それをもとにして想定質問を考え、それに対して自分なりの回答を書き出し、それを音読していた。その一部始終を動画としてゼミナールの皆さんに共有した。ゼミナールの中には何人か海外の大学院への進学を検討しておられる方がいらっしゃるので、その方たちにとって何か少しでも役に立てればと思って8本ほど動画を作っていった。この動画の作成のおかげで、自分にとってもオンライン面接に向けた準備が着実に進んだことは有り難いことだった。主要な想定質問については既に自分なりの回答を用意することができた。明日もまた午前中の時間を取って、尋ねられそうな想定質問をさらにリストアップし、それに対して文章で書き出し、音読するということを行いたい。それに加えて、志望動機書やライティングサンプルなどの提出書類を改めて読み返し、自分の関心とHDSヘの出願動機を再度明確なものしておきたい。それらが済めば、もうオンライン面接に向けての準備は後悔がないと言えるのではないかと思う。いただいたこの機会に感謝をし、この機会に有り難さを感じながら当日の面接を迎えたい。
それではまだ午前中は時間があるので、ここからは先日届いた唯識思想に関する学術書を読み進めていこうと思う。ここ最近はずっと立って学術研究を行っている。スタンディングデスクをわざわざ購入するのではなく、書籍の詰まった段ボールを2箱椅子の上に置くだけで適切な高さになる。一番上の段ボールの上に書見台を乗せて、そこに書籍を置くと快適に読書ができる。それではパソコンはどこに置いているかというと、段ボールを積み重ねたその近くの机の上に積まれた書籍の上に置いている。15冊ぐらいの分厚い書籍を机の上に積み、その上にパソコンを置いていると、パソコンの作業も快適に行える。実際に今この文章も書籍の上に置かれたパソコンを用いて執筆している。立って読書をするだけではなく、ふとした形で再び英文書籍を音読するようになった。もちろんずっと音読しているわけではないが、基本的にはできるだけ音読するようにすると、集中力がさらに高まる。立って音読するというのは最良の学習方法なのではないかと思う。再び音読に注目したのは、昔の仏教徒たちがまずは書物を目だけからではなく、音読をして、口を使って耳からも学んでいったという話を聞いたからである。確かに唯識思想における8識理論を用いれば、目だけではなく他の識を総動員する形で書物を読んだ方がより意味内容が定着するだろう。ここからはとりわけ立ちながら音読をすることを心掛け、それもまた新たな習慣として定着させたい。立ちながら音読するというのは、いつか教室で立って講義する予行練習も兼ねているように想像された。フローニンゲン:2024/2/12(月)10:39
12113. シロシビン・セッション後の筋力トレーニングを終えて/
ここからのシロシビン・セッションの目的
時刻は午後5時を迎えた。先ほどシロシビン・セッション翌日のジムのトレーニングを終えて自宅に戻って来た。シャワーを浴びてさっぱりして今に至る。この日記を書き終えたら夕食準備をし、トレーニング後の夕食を美味しく味わおう。
昨日はシロシビン・セッションがあったので今日の筋力トレーニングは無理をせず、負荷量を調整していった。追い込み過ぎず、ここでも中道を意識して適度な筋肉刺激を入れることに留めた。筋力トレーニング後の有酸素運動では特にランニングマシンの際に地に足を着ける感覚をしっかりと噛み締め、ステップの数を1、2、1、2・・・と頭の中でマントラのように唱える形で数字に意識を集中させる瞑想をしながら走っていた。ランニングマシンに乗っていても自分の意識はどこかに分散しがちなので、呼吸の数やステップの数などに意識を向けることは有益だと改めて思った。この技術は日常でも活かせるはずであり、集中力を高める訓練として積極的に取り入れていくことを検討しよう。
今日はパーソナルトレーニングの日ではなく、パーソナルトレーニングのある木曜日の午後にちょうど今週はハーバード神学大学院のオンライン面接がある。なので受付にいたパーソナルトレーナーのエリーザに相談し、時間の変更をお願いした。彼女の都合もあるのでまだ確定していないが、面接前の午後の早い時間にパーソナルトレーニングをしてもらうことができたら、面接の際には気分もリフレッシュし、心身共に整った形で面接に臨むことができるのではないかと思う。仮に時間を変更してもらうことが難しくても、自主トレーニングとして普段よりも1時間以上早い形でジムに行き、午後3時にはジムを切り上げて自宅に帰ってこようと思う。そうすれば、午後4時40分からのオンライン面接に十分間に合い、最後の調整をする時間も十分にあるだろう。
ジムに行く前にふと、ここからのシロシビン・セッションは、意識哲学、とりわけ唯識思想に関する学術探究のためだけではなく、それよりも重要なこととして、これまでの人生で自分が行って来たことへの反省と自分を支えて来てくれた人や事物への感謝の念を養うことを目的にしたいということを考えていた。学術研究に資する洞察や発見が得られることはあくまで副産物であり、自分の器を見つめ直し、少しでも阿頼耶識を清浄なものにしていくことを通じて日々他者と社会に対して善行を積めるようにしていくことを最大の目的にしたい。千里の道も一歩からである。こうして地道に一歩一歩歩いていくことが、いつか遠くへ自分を連れていってくれ、他者と社会に最大限に貢献できるようになっていることを願う。フローニンゲン:2024/2/12(月)17:26
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