【サイケデリック学・意識哲学探究記】12062-12069:2024年2月7日(水)
タイトル一覧
12062. 日本語と英語の仏教の用語辞典を購入して
12063. 今朝方の夢
12064. 批判的実在論と唯識思想に基づく物の存在論
12065. 中観派と唯識派の論争・対話に関心を持って/ヨーガ学派と唯識派
12066. 中観派と唯識派の思想から表象理論とクオリアを眺めて
12067. クオリアの指向的性質と心的一元論について
12068. 瞑想体験からの物的一元論への批判
12069. 『ヨーガ・スートラ』におけるサイケデリクスをほのめかす記述/『バガヴァッド・ギーター』の3つの実践道から考えるサイケデリクスの摂取について
12062. 日本語と英語の仏教の用語辞典を購入して
時刻は午前5時を迎えた。先ほど、シロシビン・マッシュルームの5周目の栽培の収穫を再び行った。先日の収穫をもって今回の栽培も終わりに近づいていることがわかる。今日収穫したのは微量であった。栽培キットの土の上を綺麗にしてみて、ここからさらにマッシュルームの頭が出てくるかどうかを試してみようと思った。説明書には2回から3回の収穫が可能とのことだったが、ここまで愛情を注いで育ててきたこともあり、5回も収穫ができたことは大満足である。マッシュルームは生命体ゆえに意識があり、自分の意識と交流をしながらここまで立派に育ってくれたのだと思う。そんなマッシュルームを摂取することによって、自らのライフワークである意識哲学の研究が進んでいく。そこに縁を見出すし、縁起の力を感じる。自分は他の全ての存在と依って成り立つ存在なのである。そして自分という存在がまた他の存在を生むために必要な存在であることも見えてくる。
数日前に唯識に関する専門書を一括注文したが、昨日は仏教の辞典を英語のものと日本語のものの双方を購入しておきたいと思った。日本語の辞典に関しては、唯識について日本語でも学びたいと思ったので『唯識 仏教辞典』というものを日本から取り寄せることにした。この辞典には唯識に関する漢語が網羅されており、唯識以外にも仏教に関する用語が充実して掲載されているとのことだったので、他の辞典と比較してこちらを購入することにした。この書籍が到着したら、毎日この辞典を眺めようと思う。そして重要なことは、仏教の用語体系に慣れ親しんでいくためにも、そしてそれを自らの日々の生活に体現していくためにも、仏教用語を日記の中や日頃の話し言葉の中で活用してみることである。それによって仏教用語が定着していき、仏教に対する理解が深まっていくであろう。仏教を学問研究の対象としてだけみなすのは非常にもったいなく、仏教の本義はその解放の力にあるのだから、その実践的な側面に注目することが重要かと思う。自分の手で辞書を引く楽しみと、何度も辞書の中の言葉に触れることによって、それが自分の内面世界で巨大な言葉のネットワークを形成し、自他の解放の役に立つことができればと思う。
英語の方の仏教辞典は、オックスフォード大学出版から出版されているものよりも圧倒的なボリュームがあって、日本語のローマ字表記もある、プリストン大学出版から出版された“The Princeton Dictionary of Buddhism”を購入した。この辞典には5000を超える仏教用語が掲載されているため、毎日この用語辞典を眺めるだけでも勉強になるだろうし、日々インド思想や仏教に関する学術書を読む中でわからないサンスクリット語に出会ったら、その都度この辞典を紐解くようにしてみよう。インターネットで用語を調べるよりも周辺知識が獲得されるだろう。確かにインターネットで調べればその用語の意味はすぐにわかるが、辞書の良さは周辺の関係ない単語にまで目を向けることがあったり、そこから別のページをめくってみたりする形で寄り道ができることだ。また、意外とわからない言葉があってもインターネットで調べることなく素通りしてしまいがちなところを、手元に辞書があるとそれを調べる習慣が形成されやすいように思え、言葉をしっかりと定着し、広く深い知識基盤を構築していくことに辞書は最適かと思う。仏教の用語辞典だけではなく、普段使いの英語の辞書も何か手元に置きたくなってきた。フローニンゲン:2024/2/7(水)05:25
12063. 今朝方の夢
先ほどのシロシビン・マッシュルームの収穫を受けて、今、収穫したものをオーブンで乾燥させている。今日は一日中オーブンに活動してもらうことになるだろう。
午前5時半を迎えた現時点において、気温は5度とそれほど低くないが、ここから3度まで気温が下がり、正午から少し気温が上昇して、今日の日中の最高気温は6度とのことである。ここ最近は暖かい日々がずっと続いていたが、今夜は久しぶりに氷点下の気温になり、明日の朝9時までマイナス2度の気温が続くようだ。明日は少し寒くなることを覚悟しておこう。
今朝方の夢をいつものように振り返っておきたい。夢もまた自分の意識を探究する上で格好の材料を提供してくれるのだから、それを振り返って自分の学びに繋げない手はない。
夢の中で私は、唯識についてその日に学んだことを自分に対して説明をしていた。自分に向かって1人説明するということを永遠と行っていて、そのプロセスそのものに喜びを感じている自分がいた。その日に唯識について勉強できただけでも大きな喜びであったが、学んだことを自分に対して説明することもまた大きな喜びだったのである。こうして自分に対して語りかけるようにして説明することは、まるで他者に対してそれを語りかけるかのようでもあり、自他の解放に向けた実践をそこで行っているように思えてなお喜びが増したのである。仏教徒にとって仏法を説くというのは非常に重要な実践であり、自分は出家者ではないが、在家の仏教徒として自分もまた仏法に親しみ、いつかそれを他者に伝えることをしてみたいと思った。そのような場面があった。
もう1つ覚えている夢として、京都によく似た雰囲気の街にいたことである。そこで私は、芸妓となった女性と話をしていた。彼女は舞妓から芸妓になってしばらくの年数が経ち、年齢は29歳とのことだった。彼女と話をしていたのは、彼女が住んでいる家の前であった。どうやらその一帯は芸妓や舞妓が住み込んで働いている家がたくさん密集しているらしく、雰囲気が確かに他の場所とは違って感じられた。彼女との話の中で印象的だったのは、彼女が舞妓から芸妓になる5年間の中で様々な工夫を楽しみながら行い、それによって大きく成長を遂げたという話だった。彼女の方からいくつか具体的なエピソードを話してもらい、それを聞きながら、彼女の創意工夫の精神と柔軟かつ朗らかな心の在り方に感銘を受けた。自分もまた彼女のように毎日を楽しみながら、創意工夫と明るさに満ちた形で生きたいと改めて思った。そんな場面があった。
どちらの場面も印象に残っているが、前者の唯識に関する夢について言えば、ここ最近は夢の中に唯識が登場することが本当に多くなった。確かに毎日寝ても覚めても唯識について考え、唯識に関する専門書ばかりを読んで過ごしているから当然と言えば当然かもしれないが、それにしても高頻度で唯識が夢に登場することには驚く。昨日の段階で手持ちの唯識関係の専門書の再読を終えたので、今日は休憩がてら唯識から少し離れ、インド哲学の関係書を読んでいこうと思う。また、午後からの「インテグラル・サイケデリックラジオ」で取り上げるテキストの該当箇所を再読することも併せて行いたい。今日もまた充実した探究が実現され、探究即実践が体現された日を過ごすことができるだろう。フローニンゲン:2024/2/7(水)05:42
12064. 批判的実在論と唯識思想に基づく物の存在論
先ほど、朝の呼吸法とアニマルフローの実践をしている最中に、ロイ・バスカーの批判的実在論と唯識思想を絡めて考え事をしていた。その時に考えていたことは、物と私たちの関係性についてである。言い換えれば、物の存在論について考えていた。批判的実在論と唯識思想を関連付けると、物は個人の経験世界(the empirical)には存在せず、現実世界(the actual)に存在していると言えそうである。ここで注意しなければいけないのは、物が現実世界に存在するというのはあくまでも仮の空的な存在としてということである。そして、個人の経験世界において物は物そのもではなく、あくまでも私たちの感覚的な表象として立ち現れるのではないかということである。物が私たちの経験世界で認識対象になるとき、そこですでに物は表象となる。そもそも認識していない場合には、物は依然として経験世界の外の現実世界に空的に存在しているに過ぎない。唯識思想においては、物の存在そのものを否定しているのではなく、物もまた私たちの意識内で生起すると考えるのである。例えば何か特定の物、それこそコップに触れたと仮定してみよう。その時にコップは私たちに物そのものとして、すなわちコップ全体として把握されるのではなく、そこでは視覚や触覚といったあくまでも複数の織を通じて意識内で表象として生起するに過ぎない。私たちはどこまでいっても物全体を掴むことできず、複数の織を通じて部分的な表象としてそれを捉えているのだ。物を表象として立ち現わせる際に、8つの識全てが絡んでくる。その絡み方は物によりけりであり、もっと言えばその物と過去にどのような関係性を結んでいたかという業ないしは種子の働きが関係してくる。その対象と私たちの過去の経験と8つの識が、その対象をどのように生起させるかに関係してくるのだ。それこそその対象と個人的にも文化的にも一切関係を持っていなかった場合、その対象は私たちの意識の中で生起することなく、依然として経験世界の外の現実世界に留まり続けるかもしれない。例えば、よく言われるように、日本人は虫の鳴き声を敏感にキャッチし、その音色に心地良さを感じると言われる。逆に欧米人は虫の音は認識対象に上がらない雑音に過ぎなかったり、それを不快な音として捉えることがあるとされる。ここでは同じ虫の鳴き声であっても、経験世界で認識されるのかされないのかが異なり、またその捉え方が変わることを示唆している。この背後にあるのが、8つの識なのである。
そのようなことを考えながら、最後のまとめとして、唯識思想に関して誤解してはいけないのはそれは素朴な観念主義なのではなく、物は物として空的な存在として私たちの意識が生み出す経験世界の外の現実世界には存在しているという点と、物はその個人の過去の業と種子と8織を通じて、各人様々にそれぞれの意識内に表象として立ち現れるという点である。それはあくまでも表象としてであり、物全体としてではない。コップを手に取った場合、触覚としてはコップの全ての部分を触ることはできず、それは部分的な接触であり、視覚を通じてもコップの隅々を全部見ることはできないのである。そうした部分感覚情報を通じてあくまでも表象イメージとして立ち現れるのが経験世界における物なのである。ゆえに物もまた私たちの意識の中にあると言えるのはそういうことなのだ。フローニンゲン:2024/2/7(水)06:46
12065. 中観派と唯識派の論争・対話に関心を持って/ヨーガ学派と唯識派
今日もまたモーニングコーヒーの香りに誘われる形で新たな閃きがあった。大乗仏教を構成する2大学派の中観派と唯識派に関して、両者の論争あるいは対話を調査してみようと思ったのである。竜樹以降の中観派と世親以降の唯識派の論争に関する文献を読むことを通じて、両者の思想体系をさらに深く理解し、両者がそこからどのように思想を発展させていったのかを理解したい。そのような思いを改めて言葉にしてみたところ、すでに先日の書籍の一括注文の際に、オックスフォード大学出版から出版された“Madhyamaka and Yogacara: Allies or Rivals?”という書籍を購入していることを知って嬉しくなった。この書籍を注文した時から潜在的に自分の中には両者の論争と対話に関心があったのだろう。今の自分の中では、両者の思想は共に重要性を持つが、重要性の度合いは唯識派に軍配が上がる。竜樹を開祖にした中観派の思想では、兎にも角にも「空(くう)」という概念を竜樹が提唱し、中道の大切さを説いたことが大きい。その価値は計り知れないものがある。しかし、空という概念だけで悟りの道を歩むのは難しく、悟りの道の歩みを妨げているものに関する分析がまずは必要になる。それを膨大精緻に行ったのが唯識派である。唯識派の多大なる貢献は、私たちの解放を妨げる心の性質を広大かつ緻密に分析したことにある。端的には、悟りに至ることを妨げ、私たちを苦しめる心の構造とそのメカニズムを詳細に分析したのである。その分析はとても緻密なため、単に細部を突く学問的な探究に思われるかもしれないが、決してそのようなことはない。なぜなら、唯識派の正式名称は「瑜伽行唯識学派(Yogachara/Yogacara)」とあるように、「瑜伽(ゆが)」すなわちヨーガの実践に基づくものであるからだ。現代人が想像しがちな身体運動としてのヨーガではなく、当然ながら身体運動を含めながらも、瞑想実践を包摂した実践体系が本来のヨーガ意味なのであり、それを体現しているのが唯識派なのである。心の詳細な分析に加えて、こうした実践的な側面を持っているのが唯識派の魅力かと思う。もちろん中観派にも固有の実践的な側面があるはずなので、それについてもまた調査をしてみよう。
唯識派とのつながりの観点で、インド哲学の六派哲学の中でもヨーガ学派の思想をまずは学んでいこうということを昨夜考えていた。当初はサーンキヤ学派とヴェーダンタ学派を比較しながら両者の思想体系を学んでいこうと思っていたが、唯識派が「瑜伽行唯識学派」と呼ばれることからも、その名前に近いヨーガ学派の思想体系の理解をまずは深めていこうと思った。両者の思想は随分と異なる点はあるが、潜在意識を浄化していく点では共通しており、その共通項をまずは深堀していこうと思う。そこから両者の思想的な相違をさらに明確にしていく。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の英訳を再読している限りだと、ヨーガ学派は無意識に関する説明記述が唯識派ほど詳細ではなく、そこにまずは違いを見つけることができる。しかしいずれも身体運動と瞑想実践を核にし、心の詳細な分析を行った点では共通している。今のところ、心の詳細な分析についても唯識派の方が精緻さが際立つ。もちろんヨーガ学派が分析で用いている概念の中で唯識派にはないものがあるので、そのあたりの点には価値を見出すが、順番としてはヨーガ学派の心の理論を学んでから唯識派のさらに詳細な心の理論を学ぶことを多くの人に勧められるかもしれない。フローニンゲン:2024/2/7(水)07:18
12066. 中観派と唯識派の思想から表象理論とクオリアを眺めて
今日の「インテグラル・サイケデリックラジオ」では、表象理論やクオリアを扱うが、それと唯識思想を絡めるとどのようなことが考えられるかについて考えていた。表象理論の基本的な考え方としては、クオリアは私たちが体験する体験そのものの性質を表しているのではなく、体験という表象内容であるとする。この基本的な考え方に対して唯識思想はどのような応答をするだろうか。今現在西洋の意識哲学も東洋の意識哲学も依然として探究の途中にあるため、表象理論と唯識思想の深い理解がないままに考えを進めていくことになるが、ある体験もまた空的な存在であり、そこには無限の意味や感覚を含むものだと考えてみると、表象理論の基本的スタンスは唯識思想の考え方と矛盾しないかもしれない。体験もまた固定化された実体を持つものではなく、クオリアはそうした実体なのではなく、あくまでもその個人がある体験を得た時に喚起される表象内容であるとみなすのは頷ける。唯識思想においては、1人1宇宙という発想のもと、その人が体験する体験内容と同じ体験を別の人が完全に同一にすることはできない。もちろん他者がどのような体験をしていたのかについて、その内容を外から推し量ることはできるが、それぞれに固有の意識世界があり、それらは相互に影響を与え合う性質を持っているが、その世界はやはり各人固有なのである。インテグラル理論において内面世界を内と外に分けて考えるというのはまさにこうした理由による。同じ赤いリンゴを見ても、赤さのクオリアは各人固有の表象内容を持つ。その背景には先ほどの日記で書き留めたように、各人固有の業と種子があり、8つの識の働き方が各人様々であるからだという説明ができそうである。西洋の意識哲学と東洋の意識哲学、とりわけ唯識思想がゆっくりと橋を架けるように探究を進めていこう。
そのようなことを改めて思った後に、クオリアを意識体験の内在的性質だとする見方の問題は、中観派の空という観点から説明できると思った。すなわち、クオリアを意識体験の内在的性質だとする発想の背後には、意識体験に本質なるものが存在するという前提条件があり、中観派の空の発想からすると、その前提条件に誤りがあると指摘できるだろう。意識体験に1つの固定化した絶対的な本質など存在せず、それは空的なものであると捉えてみると、クオリアを意識体験の内在的性質とするのではなく、意識体験の表象内容とする見方にやはり一票を入れたくなってくる。東西の意識哲学を横断することの楽しさは、お互いが問題として取り上げているものが反対側の思想体系でうまく解決できそうだと感じさせてくれることである。自分は東西の意識哲学に対して中道を歩みながら、意識に関する問題の解決に向けて尽力をしたいと思う。意識に関する様々な問題の解決はきっと多くの人や社会の幸福の実現に寄与してくれると信じている。フローニンゲン:2024/2/7(水)07:51
12067. クオリアの指向的性質と心的一元論について
つい先ほど、表象理論とクオリアに対して中観思想と唯識思想を絡めて考えていたが、それぞれの人が同一の物を見て、それぞれが異なる表象内容を持つとすれば、どうやって共同合意が図られるのだろうかと関心を持った。つまり、「そのリンゴは赤い」と述べる時、仮にその赤さの表層内容が各人それぞれ異なるのであれば、どうやって私たちはそのリンゴは赤いということに対して合意をするのだろうかという問いが立ったのである。相手と自分は赤さに関して異なる表象内容を保持しながらも、そのズレが知覚できないほどに微細の場合に共同合意がなされるのだろうか。あるいはそもそも、言葉というのは根底に普遍的な性質を喚起するような力を内包しているがゆえに、「赤い」という言葉を聞いた時に、ある程度の普遍性への合意が無意識的になされるのだろうか。ここでは言語に関する問題の分析が必要になってくる。幸いにも東西には精緻な言語哲学があるため、とりわけまずは仏教の言語哲学に注目してその理解を深めていき、上述の問題に加えて、言葉と体験に関する種々の問題に取り組んでいきたい。
そこから改めて上述の問題について考えてみたところ、クオリアを体験の内在的性質でも表象内容でもなく、表象内容を立ち現わせる機能的性質だと捉えてみた。すると、クオリアが表象内容を立ち現わせる機能的な性質であるならば、表象内容にズレが生じていても、異なる人たちとの間でお互いの体験を共有理解することが可能かもしれないと考えた。すなわちクオリアを、ある特定の表象内容を喚起させる指向特性と考えてみたのである。赤の赤さをクオリアと捉えるのではなく、赤の赤さを生じさせている意識の指向性をクオリアだと捉えてみると、赤の赤さには各人多様なものがあったとしても、赤の赤さを生じさせている意識の指向性には普遍的なものが見出せるかもしれず、それを通じて体験に対する共通了解が形成できるように思えた。もちろんこれは今思い付いたアイデアに過ぎないので、ここから実際に東西の意識哲学においてこの点に関する議論を追ってみようと思う。
少し時間をおいて、クオリアの指向的特性について考えてみた時に、その指向的性質を生み出しているのが8織の作用だと唯識思想を用いれば説明できるかもしれない。そもそもある物を認識する時には、それがある特定の物だと認識するための意識の働きが必要なのであって、物があるから認識が発生するとは限らず、意識があるから物への認識が発生することを考えるとき、やはり唯識思想の本義である私たちが経験することの全ては私たちの意識の中にあるという心的一元論の考えに賛同したくなる。物の世界は確かに存在するが、しかし物への認識が生まれるためには私たちの意識がなければならず、個人の経験世界に物が表象として存在するためには意識が必要なのである。そうしたことから物が先で意識が後という物的一元論ではなく、意識が先で物が後という唯識思想に基づく心的一元論を今の自分は採用していることが見えてくる。フローニンゲン:2024/2/7(水)08:29
12068. 瞑想体験からの物的一元論への批判
もう少しクオリアについて考えてみたい。今のところクオリアを一般的な定義としてのある体験の体験質という表象内容と捉えるのではなく、体験質を生み出す意識の指向性と捉える考え方に賛同している。道の先にある何かではなく、道の先にある何かを導く働きとしてクオリアを捉えている自分がいる。体験内容そのものではなく、体験内容を導く意識の指向特性としてのクオリアという発想をしばらく持ってみて、唯識思想を参照しながらさらにこの問題について考えてみようと思う。
そのようなことを考えた後に朝の瞑想実践を行っていた。その中でまた1つ閃きが起こった。瞑想の中で赤いリンゴを想像して内観をしていた時に、そこに確かに物理的な世界に存在する赤いリンゴを見た時と同様の赤さを感じ取っている自分がいることを観察したのである。この観察事象に基づけば、物的一元論ではなく、心的一元論にますます軍配が上がりそうだぞと思った。先ほどの瞑想中の自分は、物としての赤いリンゴを全く必要としていなかった。それにもかかわらず、赤いリンゴを意識空間内で思い浮かべた時に、赤いリンゴの赤さへの指向性と赤さの感覚質を見出した自分がいたのである。物の存在を意識現象の前提に置く物的一元論は、この観察事象からも心許ない。インド哲学においても、物的一元論のような物質主義的・物理主義的に立脚した思想がひどく批判されていたのは、彼らの思想の発展過程において一人称的な瞑想実践が核にあったからなのではないかと思う。もちろんその一人称的なアプローチが行き過ぎることには彼らも自覚的であり、物の性質について詳細に分析したヴァイシェーシカ学派やサーンキヤ学派などが存在する。また、心的一元論を採用する学派においても、物の非存在を乱暴に説くのではなく、様々な議論を経て詳細に意識と物の関係性を分析し、最終的に心的一元論に到達したヴェーダンタ学派や仏教の唯識派が存在していることも書き留めておきたい。いずれにせよ、先ほどの瞑想体験は今朝方に考えていた問題に対して光をもたらすものだった。研究書の読解と瞑想実践の両輪を回していくことが意識哲学の研究上においてどれだけ大事なことかを教えてくれる体験であった。研究書の読解と瞑想実践の往復はとにかく面白く、多大な至福さをもたらしてくれる。フローニンゲン:2024/2/7(水)09:53
12069. 『ヨーガ・スートラ』におけるサイケデリクスをほのめかす記述/
『バガヴァッド・ギーター』の3つの実践道から考えるサイケデリクスの摂取について
時刻は午後4時を迎えた。今日も早朝からここまでのところ研究活動と瞑想実践を含めて非常に充実した時間を過ごしていた。特にインド哲学中におけるインド仏教の唯識思想を深く学び始めてから、毎日の充実度合いが格段に増しているように思う。それは単に唯識思想の学問的広さと深さに心を打たれているからだけではなく、その実践的意義と価値を感じているからだと思う。端的には、唯識思想の中で展開されている考えに1つ触れただけで、それをその瞬間からの日々の行動に実践していくことができるのだ。それぐらいに唯識思想で語れることの1つ1つが実践的な力と価値を帯びていると実感しており、それが探究と実践の喜びをもたらして、日々を希望と幸福さで満たしているのだと思う。
先ほどは、ヒンドゥー教の聖典の1つかつ、インドの二大叙事詩の1つである『マハーバーラタ』に含まれる『バガヴァッド・ギーター』の英訳書を再度読み返していた。その前にはそう言えば、午前中に『ヨーガ・スートラ』を読み返しており、その第4章第1節で言及されている霊的体験をもたらした薬草が何であったのかを改めて調査しようと思っていた。いずれにせよ、サイコアクティブな植物かマッシュルームを用いていたことがその節から窺え、インドに自生する何らかのサイコアクティブな物質がインド思想の発展の後押しになっていた可能性を見出していた。『ヨーガ・スートラ』には非常に重要な教えが散りばめられているが、唯識思想ほどには無意識の特性についての言及がなく、そこが物足りない点だったので、『バガヴァッド・ギーター』における無意識の取り扱いを調べてみた次第である。結論から述べると、『バガヴァッド・ギーター』も唯識思想ほどには無意識について深く踏み込んだ議論をしていなかった。今、『ヨーガ・スートラ』と『バガヴァッド・ギーター』に敬意を評してそのような表現をしたが、実際のところ、解脱と悟りにおいて知らなければならないであろう無意識の特性については両者はほとんど言及していないのである。その点に両者の限界を見る。しかし繰り返しになるが、それ以外の点においては、両者は私たちが解脱と悟りを実現していく上で重要なことを多角的に述べているため、その価値を忘れてならないと思う。
『バガヴァッド・ギーター』はわずか700行からなる散文詩の形式を採用していて、「神の詩」とも言われるだけあって、1つ1つの文章が美しい。いつか英訳ではなく、手元の翻訳書に併記されていたサンスクリット語の原典で読みたいと思った。それくらいに味わい深いものを本書は持っている。本書のみならず、インド思想や仏教思想に関する原典は原語のサンスクリット語のままで是非ともいつか味わいたい。
『バガヴァッド・ギーター』はユングやエマーソン、そしてデイヴィッド・ソローに影響を与えただけではなく、サイケデリック研究に大きな功績を果たしたオルダス・ハクスリーも愛読していたことでも知られる。『バガヴァッド・ギーター』とサイケデリクスとの繋がりでいえば、『バガヴァッド・ギーター』は「智慧による解脱(ジュニャーナ・ヨーガ)」、「善き行いによる解脱(カルマ・ヨーガ)」、「超越的な存在への帰依による解脱(バクティ・ヨーガ)」といった異なる解脱の道を示し、サイケデリクスの摂取は超越的な存在との一体化を促すという点でバクティ・ヨーガに接続しやすいのではないかと思った。確かにサイケデリクスの摂取を通じて自己の本質としての純粋意識への気づきと、純粋意識と普遍意識が一体のものであるという梵我一如的な目覚めの体験とその力の恩恵を十分に授かるべきだと思うが、他の実践道も合わせて持っておかなければ極端に傾いてしまう可能性があると考えていた。少なくとも『バガヴァッド・ギーター』が提唱するように、超越的な存在に目覚める道に加えて、自己と世界に対する正しい知識を身に付けていくという智慧の道、そして善き行いをしていくという道も合わせて歩んでいくことの大切さを自らに言い聞かせた次第である。フローニンゲン:2024/2/7(水)16:26
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