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物に意味を持たせるということ

私たち現代人の生活には数えきれないほどの道具が関わっている。

スマホを筆頭とする多くの家電、食器、家具、日用品、筆記用具etc...

そういった、

”物がただ物である以上の意味を持たされたもの” = 道具 

に支えられて私たちの生活は成り立っている。

多くの人々は、そう言った道具が壊れタダの物になった時、そこに価値を見出さなくなり捨てるという行為に及ぶ。今日はそんな物と道具と価値について思ったことのお話。



私は何かをを作ったり修理することが好きだ。

その代表的な例がオーディオ機器である。時には人から壊れて不要になったスピーカーなどを引き取って修理して使うこともある。

廃棄物を集めたり、使えそうな部品をゴミの山から探したり…そんなことを日常的に行なっていると、人からゴミ集めが趣味なのかと言われることがある。

人はゴミを利用することにマイナスイメージをもつらしい。卑しいだとか汚いだとか。しかしゴミというのは、もともと意味を持った道具であることがほとんどだ。そして電子機器のような複雑な道具は、小さな部品という道具の集合だったりする。その中で一つでも動かない部品があると、大きな枠組みとしての機器という道具は価値を失うのである。

例えばスピーカーの場合、内部の配線が一本でも切れたり、コンデンサやコイルといった小さな道具一つでも壊れると音が鳴らなくなり、そこで多くの人にとってのスピーカーという価値は失われるのである。

多くの人にとってのスピーカーというブラックボックスの中には、まだ生きている小さな道具たちが眠っている。しかしそのまま廃棄されると焼却され埋め立てられるか、良くても解体され金属やプラスチックの塊といった”物”になってしまう。

マクロな価値を失った瞬間多くの人はそこに内包されるミクロな価値を手放してしまうのだ。

私はそういった見捨てられた価値たちをたまらなく愛おしく思うのである。


私はそんな見捨てられた道具や価値について考えた。

”これまでの話を逆説的に解釈すると、ちょっとした工夫や行為で物の価値というのは生み出す(あるいは再構築)できるのではないか”

その時ふと100均のことが頭をよぎった。100均の製品はそこまで複雑なものは多くない。だが人はそこに道具という価値を見出して購入する。

プラスチックの塊が洗濯バサミという意味を持つと人はそれを有用だと判断する。木の棒が2本あればそれを箸だと認める。

そんな最小単位での価値創造とアイデアによって100均は成り立っているのではないだろうか。


少し話が逸れたが何が言いたいかといえば、我々の身の回りにはそういった価値創造の賜物が溢れているということである。

我々はいつの間にかそれらの価値を一方的に享受する側というスタンスをとってしまっているのではないだろうか。

現在の消費社会では壊れた道具を直して価値を復活させるより、新たに価値を購入したほうが早いという思想が強い。またはその全行程を他者に委ねてしまってその実感がない。

だが、本当にそうだろうか。

「2001年宇宙の旅」の冒頭で一匹の猿が骨という”物”を何かを打つ為の道具として使用したように、我々はよりプリミティブな領域で本当は価値を創造しているのではないか。

巷に溢れるライフハックも価値創造だし、喉から出る音波に意味を持たせることだって声や歌という価値になっている。

タダの色素をカンバスという道具に塗れば絵画という価値は生まれる。

それらが価値創造であるかどうかという明確な境界というのはどこに存在するわけでもなく、道具が潜む分だけ身の回りに偏在している。

そういった小さな価値造像の繰り返しないし積み重ねで全ての道具(道具に限らず人の手による万物)は生み出されているのではないか。

人は物に価値を与えられる生き物なのではないか。あるいはその価値を解釈し見出すことができるのではないか。

そんな発見と心境の変化があったので忘備録的にnoteに書き記した次第だ。












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