父と私と母
父は広告会社をやっていた。
父の兄二人と父の友人と母と父の五人の株式会社だったそうだ。
吸収合併されるまで父は乗りに乗っていた。
だが暗雲が立ち込める。
父は自分の構想を誰かに話す機会を永遠に失い
友人も会社も兄弟の繋がりも夫婦仲も全て失っていった。
幼なかった私は豹変していく父に怯える他なかった。
会社が順調な頃はよく飛行機をしてもらい
スーツの父に抱っこされる事が大好きだった。
段々と起きて来ない日が増えて行き
夜中に部下を連れ帰り
目が覚めると知らないおじさんが居る家は怖かった。
ニコニコしながら「挨拶しなさい」と父に言われたが
私は母にしがみつき後ろに隠れた。
母は無理に引き出さずそっと幼稚園へ行かせてくれた。
そして深夜の夫婦喧嘩が増えて行き
何も事情を知らされないまま引っ越しをし母が働き出した。
そうしていつの間にか父から私の存在は消えて行った。
物心ついてから話したのは三回だけだ。
国会の仕組みを聞いた時と
大型免許の話しと
一度目の離婚を説明する時だ。
引っ越し以降も毎日欠かさず挨拶を続けたが終ぞ返答は無かった。
何を話しかけても父に私の声は届かなかった。
だから三回をよく覚えている。
悪態を突いても無視され続けた。
一度だけ殴られそうになった時は
母に庇われ直接の暴力を受ける事はなかった。
母に暴力を振るい訳の分からない事を叫ぶ父は私にとって完全に悪だった。
趣味の合う姉と違い馬が合わなかった所為もある。
姉の時と違い私の進路にも無言無関心を貫いた。
父という存在の意味がずっと分からなかった。
母に離婚を懇願し続けたが
早くに父を亡くし親戚中たらい回しで苦労した母は
どんな父でも居ないより良いと言う考えを覆さなかった。
高校生になり突然の過干渉が始まる。
激しく混乱し酷い反抗期は長引いた。
家出をし一度目の結婚と離婚をして
一人身に戻る私の再出発の引っ越しを手伝って貰った時に
父とやり直せるかも知れないと思った矢先に
父の借金が発覚し肩代わりする覚悟で話し合いに赴いた。
父は真剣に話しを聞き「分かった」と私の条件を呑んだ。
ニコニコしながら
「よはくがそこまで考えて言ってくれるなら」と。
帰り道
借金についてとこれから4人分の暮らす分
涙が止まらなかった。
だが産まれて初めて父に私の言葉が届いた
情けなさとなんとも言えない気持ちでぐちゃぐちゃだった。
翌早朝父から一本の電話が入り
条件を全て反故にする旨を宣言され
私は呆れ返り
「こっちから勘当だよ。ふざっけんなよ。勝手にしろ」
怒鳴り散らし父と連絡を絶った。
切った電話ですぐに親戚に電話をかけ
「よはくちゃんだけが頼りだから」
そう言う親戚たちに縁を切らせて頂きます。
もう親戚だと思ってもらわなくて結構です。
返事は
「そう…困ったわね…」
そのまま切った。
母はあれだけ離婚出来ないと言い続けたのに
私が離婚すると言った途端
「お母さんも離婚しちゃおうっと🎶」
ウキウキで離婚した上に
借金の話しをしたら
「お母さん、もう離婚してるから関係ないもん」
割りを喰うのはいつも私だった。
その日のうちに父の写真を全て捨て
自分には元々父親など居なかったと思い込んだ。
母のことは…
ボコボコに殴られても殴られても
なんとか家族を守ろうとしたんだ
そう思うと
やり切れない気持ちで連絡を断てなかった。
父の影はきょうだいを通して付いて回った。
癌で亡くなる直前に
せん妄の出ている父のお見舞いに
一度だけ行った。
私の右手を両手で包み込み眠る父。
永遠の眠りについた父。
お骨になった父。
そこから十年かけ父と和解した。
唐突にそれは訪れた。
父を思い出してもフラッシュバックを起こさなくなったのだ。
それは母との最期の時間を奪った家人と和解出来た時だった。
もう大丈夫と思っていたフラッシュバックは全然大丈夫じゃなかった。
きっかけがうちに無いだけで
先日病院の待合室に意味無く流れている国会中継で
危うく倒れそうになった。
思った以上に根深かった。
人生の半分以上を「家族とは?」に捧げた。
どうしても平和な家族を諦め切れなかった。
中学の家庭科の教科書にあった
『産まれた家族と生む家族』
私は自分が育む自分の家族が欲しかった。
もし魂や天国や地獄や様々な概念が存在し得るのなら
家人と猫ちゃんと過ごす私を
父は何も言わず笑って見ているだろう。
父と私の間に言葉は介在出来なかったのだ。
2024年10月19日(土)
大幅に加筆修正あり
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