生き方だけが、洗練されない
年齢を重ねるにつれて、自分に合った服の着こなしや暮らし、人付き合い、何となく掴めてきたような、洗練されてきたような感じがするけれど、生き方はいまだ洗練されない。
・シンプル
・スタイリッシュ
・垢抜け
「洗練」と聞くと、そんなイメージが真っ先に思い浮かぶけれど、シンプルな生き方もスタイリッシュな生き方も、それが正解というわけではない。
シンプルな着こなしが、必ずしも「洗練されたファッション」というわけではないのと同じように。
そう考えると、洗練とは、“自分に合うものを選ぶこと”、そして“選んだものを自分に合わせていくこと”のような気がしてくる。
一般的におしゃれと言われているものを身につければ誰でも洗練されるわけではなく、体のサイズ感や顔の系統、イメージは人それぞれ異なるのだから、自分に合うように調整していく必要がある。
生き方が洗練されていかないのは、選ぶことと合わせていくことのいずれも、難易度が高いからだ。
「自分に合った生き方ってなんだろう」
という問いの納得解を見つけるのがまず難しい。
納得解を見つけたとしても、それを自分に合わせていくのに時間がかかるが故に、自分に合う前に諦めてしまったり方向転換してしまったりする。
そしてまた、「自分に合った生き方ってなんだろう?」というスタート地点に戻り、また合わせようとしては挫折して、という流れを繰り返す。
諦めずにこの流れを何度も繰り返せば、そのうち洗練されていくのかもしれないけれど。
むしろ、生き方を洗練させるというのは、「自分に合った生き方ってなんだろう?」という問いの納得解を見つけ、そこに合わせていく、合わなければまた問いに向き合う、この流れを繰り返すことそのものなのかもしれない。
いや、待てよ。
どうせ正解なんて分からない気がするし、たとえ正解だったとしても、いつ「これが正解だった」と思えるかも分からない。
それなら、自らに生き方を問い続け試行錯誤を繰り返す、この過程そのものを楽しめるような人生こそ、本当に洗練された人生なのではないだろうか。
「洗練された」とはまた違うかもしれないけれど、そんな人生でありたい。洗練されているかどうかは、あまり重要ではないのかも。
なんて言うけれど、自分なりにアレンジしてみたい。
・・・どうやら、コピーライティング能力も洗練されていないらしい。