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#余白 #ひと休み

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深呼吸。
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非合理と余白、秋めいて。

曲がりなりにも二十数年生きてきて、良くも悪くも、自分のことを客観視できてしまっている。 「いつもの自分なら、きっとこっちを選ぶだろうな」 「あ、また押し負けそうになってこっちを選ぼうとしている」 二十数年生きていると、今まで何となく「大人がすること」だと思っていたことがそうではなくなって、いよいよ自分も向き合わねばならないことに変わっていく。自分は自分のことをまだ「大人」だと認めたわけではないのに。子どもと大人の狭間を、この曖昧な境界線を、いつまでも何となく漂っていたいの

頭によぎっては消えていく日々。金木犀の香りに紛らわせて。

金木犀の香りみたいに、あんまり思い出したくない過去の恋愛とか、やらなきゃと思ってやれていない仕事のことが、ふと頭によぎっては消えていく。 頭によぎるだけで、過去は変わらないし仕事が減るわけでもないけれど、ほのかに心地良い。 - 最近、何だか「今」に集中できていない。 頭に何かがよぎっては消えていく、それがまた頭によぎってはまた消えていく、波打ち際に立ち尽くして、押し寄せる波をただぼーっと眺めているような日々。 進展はない。けれど、後退も停滞もしていない。 そういう

点と点が線にならなくても。いつかの自分が、都合よく、良い感じに、解釈してくれる

「真夏のピークが去った」と天気予報士がテレビで言って久しいけれど、あいにく、自宅にテレビを置いていないから分からない。 テレビを置かない生活を始めてから、7年。 2ヶ月に1度くらいはこうして腰を据えて文章を書くようになって、2年。 旧友と疎遠になって、かれこれ、何年になるのだろう。 毎日を精一杯生きている、と言えば聞こえは良いけれど、良くも悪くも日々を何となく生きていて、今日という「点」をむやみに打ち続けているだけのような日々。 だから、ふとした時に「あれからもう何年経

「あけましておめでとう」も言えなくて、春。

「あけましておめでとう」のたった一言さえ綴ることなく、気づけば桜は早々に散っていて、いつの間にか春の輪郭もぼんやりしてきている。 相変わらず、暖かい日もあれば肌寒い日もあって、春と冬の終わりを行き来しているような日々だけれど、自分自身も例に漏れず、自宅と職場を行き来しているだけの日々。 毎年、桜を見ると、初めてそれを目にしたかのような感覚に陥る。 だからなのか分からないけれど、桜の存在が無条件に嬉しい。 面倒くさいこともそうでないことも、知りたくなかったこともそうでな

都会の喧騒から離れても、都会にいた

都会の喧騒から離れても都会にいるような日々。 人混み、不必要な人生に対する焦燥感、不必要な言葉、リアルという喧騒から逃れようとして辿り着いた世界もまた、自分にはおそらく必要のない言葉や写真、映像で溢れていた。 地元、故郷。 幸い、そう呼べる場所があるけれど、いつしか、本当の自分でいられる場所に帰ってきた安心感よりも、優越感に近い安心感を感じたい自分がいた。 「ここなら都会で目立てない自分でも目立てる」 「あぁ、相変わらずここにいる人たちは野心も承認欲求もない」 どこ

どんなに愛おしい今日も、明日には過去に変わってしまう

東京。無慈悲に見下ろすビル群、煌々と光る眠らない街。 この街で育ったわけでもないし、この街に救われたわけでもないし、この街に恩を返したいなんて間違っても思わないけれど、出会いも、別れも、あなたの喜んだ顔も、切ない顔も、いつも背景はこの街だった。 「今を大切に生きたい」と願って止まないけれど、いつも「今」を掴み切れない、するりと手から抜け落ちてしまう。 思わずガッツポーズをしてしまうような喜びが込み上げる瞬間、気心の知れた友人と顔を赤らめるひととき、ずっと前から待ち遠しく

長い人生を短い時間軸で生きてしまう僕らは

ふとカメラロールを開いてみると桜の写真でほとんど埋め尽くされていて、一瞬「今年の桜も綺麗だったな」なんて心が動きかけたけれど、「最後の写真が桜だなんて、普段写真を撮らなさ過ぎだ」という呆れと、予想外の暑さで滲んだ額の汗が、自らを現実に引き戻す。 奇しくも、いや、これはある意味現実逃避なのかもしれないけれど、余裕がない時ほど「あいつは今頃元気にしてるかな」なんて考えてみたりする。 あいにく、それをすぐに確認できる術もなければ、確認できる次の予定も決まっていないのだけれど。

自分さえ知らなかった未来に今自分はいる

階段を右足と左足で交互に、リズミカルに降りていくように、日々何かが心に浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。それを言葉にする暇もなく。 言葉にしたくなかった葛藤。 言葉になれなかった苦悩。 言葉にすべきだった恋心。 そういうものほど案外消えずにずっと残っていたりするわけだけれど、消えてしまったことさえ思い出せないような感情の方が、きっと多い。 何かを忘れたり忘れたことさえ忘れてしまう、失くした分だけ拾っていく、人生とは意外とそういう繰り返しで、どれもが刹那的だ。 後に

小さなことで一喜一憂し続けたいし、大きなことに夢中でい続けたい

些細なことで傷ついてしまったりモヤモヤしてしまう人は、些細なことで喜べたり気持ちを切り替えることのできる人かもしれない。 「繊細」というのは、文字通り、すぐに壊れてしまう脆さを持ちつつ、そのさまが美しく魅力に感じられたりすることだ。 「小さいことは気にするな」 銀のコスチューム、かつてお茶の間でエンターテイメントとして消費したあの言葉は、他者の人生を平気で覗き見れたり些細な何かで溢れている現代を生きる僕らに、そっと寄り添ってくれる言葉だったのかもしれない。 とはいえ、

マラソンのような人生があるなら、散歩のような人生もあって良い

人生はマラソンのようで、マラソンでない。 みんな同じゴールに向かって走るわけではないし、優劣もつかない。 人の数だけゴールがあり、ゴールの数だけ道もあって、ペース配分は人それぞれだ。 「そもそも走らないといけないのだろうか」 スタートの合図とともに走り出さないといけないのだろうか。 走るペースが人それぞれなら、そもそも「走らない」というペース配分の仕方もあるはずだ。 「人生はマラソンではなく、散歩だ」 マラソンのように走っていたい人もいれば、のんびり散歩していた

「今」の優先順位が低くなると、人生はどんどんつまらなくなる

過去を嘆いたり、未来を憂いてばかりだから人生がつまらなくなるのではなく、それらの結果「今」の優先順位が低くなることで、人生はつまらないものになってしまうのかもしれない。 「あの時ああしていれば」 「明日の仕事嫌だな」 そう思い悩みながらSNSを眺めているうちに、いたずらに時間は過ぎ去って、適当に食事を済ませ、適当にシャワーを済ませ、またSNSを眺めながら歯を磨いて寝る。 自分の好きなものを食べたり、たまには少し凝ったものを作ってみたり、たまには湯船に浸かってゆっくりして

「あなたに出会えたから」と言える、キミがすごいだけ

そう言われて、全く悪い気はしない。むしろ、すごく嬉しい。 ただ、そう解釈したのは紛れもなくあなた自身で、過去の出会いや経験、それらをプラスに変えて行動できているのも、紛れもなくあなた自身。 あの時、たまたま自分と出会って、たまたま自分が話を聞ける状況にあって、たまたま思い浮かんだ言葉を伝えただけで、あなたがうまく受け止めてくれたから。 * 人のことをどこかあまり信用していなくて、自分に対してもあまり自信を持てていなくて。どこかで使い古された言葉じゃ、決して心は動かなく

金曜日、今日もみんな平気な顔して生きている

大人になって「自分」が分からなくなるのは、ありのままとか素をなかなか見せられなくなるからかもしれない。 誰かの顔色を伺ったり、自分の立場を気にしたり、数少ない心を開ける友人と気づけば疎遠になっていたり。 だから、こうして平気な顔をして生きている。何事もなく、いや、何事もなかったかのように一日を過ごし、あっという間に一ヶ月、一年と経過している。 時には、「平気じゃないんだよね」ということさえ、平気な顔して言ってみたりする。 そうしているうちに、段々と分からなくなっていく

コンテンツの流行りも消費もはやすぎる

ファストフードのようなコンテンツに慣れすぎて、最近ドラマを観るという“リハビリ”をしている。 「映画は長くて観れない」 なんて声を最初に聞いた時は、他人事のようにびっくりしていた。 ただ、そんな自分も映画を観なくなってから随分と久しい。 映画館から足が遠のいてしまったのはもちろん、サブスクサービスで映画を観ようとする時も、何だか覚悟を決めるかのように自然と深呼吸してしまう。 いよいよ最近は、動画でさえ1.5倍速で観るのが日常になってきている。 一体、自分は何かに追