瀧川鯉かんの、死
新年早々訃報の記事をあげるのは気持ちいいものではないが、中々興味深い資料を見つけたので、研究発表――とまで行かぬにせよ、公開したいと思う。
隠すのは簡単であるが、これを隠したら次に出てくるのは何年後になるか分からないし、隠すために研究をやるなら、研究なんざやらない方がいい――という方針が僕の理念である。
今回取り上げるのは滝川鯉かん。明治から昭和にかけて活躍した音曲師で、頗る人気があった。今、落語界を賑わせる瀧川鯉昇や瀧川鯉斗とは関係はない。あの一門は春風亭から出たもので、瀧川の名前も今の鯉昇がつけたものである。鯉かんという名前の方が古いわけだが、この名前は音曲師の名前ゆえに未だに継ぐ人がいない。仕方ない事だ。
それはそれとして、この鯉かんという人は、落語の歴史書にちょくちょく出てくる割に、経歴などはよく判っていない。Wikipediaに一応記事があるけれども、万全とは言い難い。そういう時に訃報記事が非常に役立つのだ。
この訃報記事は『日刊ラヂオ新聞』(一九二九年七月一八日号)に掲載されたものである。
お馴染の音曲の名人
瀧川鯉かん逝く
美音で藝熱心の人氣者
十五日朝宿痾の胃癌で
落語会の人気者で音曲の名人と謳はれた、瀧川鯉かん事矢島金太郎(五八)は十五日午前七時年来の宿痾胃癌の爲めに逝去した
×
瀧川鯉かんは八丁堀の錺(かざり)屋の息子で、小さい時から落語を好み、橘家圓喬の弟子となり一晩四銭位の給金で席走りをやつた程であつたが天性の美音と熱心さが遂に音曲界に名を馳せしめるやうになり、圓喬の許を去つて先々代の音曲の名人春風亭柳枝の門に入り、梅枝と名乗つて賣出した。
×
今の入船亭米蔵が錦枝と言つた頃二人掛合で高座に出て非常な人氣を呼んだことがある。その後真打ちとなり江戸の名人音曲師としてその藝と名とお江戸氣質がピタリと合つたところをいつもよく表して、非常な人氣を博してゐたのである。ラヂオでも開始以来数十回の放送で既にお馴染の人である
この訃報に接した
AK演藝部主任
石井勝氏は語る
『先年長患ひをしてから、胃が悪くて困ると始終言つてゐたが、逝去の報を得て驚いてゐる、天性至つて呑氣な面白い方だつたが、又實直なところがあつて先月晦日の寄席の夕にも病床にゐながら『どんな事があつても出る』と言ひ張つて介抱人を困らした程でした、兎に角まだ死ぬ年でもないのに、あたら名人を失つて哀惜の情に堪えません』
石碑の柱や
娑婆の屋根
珍な鯉かんの家
震災當時の逸話
浅草榮久町に住んでゐた音曲の名人瀧川鯉かんさん、今でも耳に残つてゐる有名な逸話がある。
×
それは大正九年(※原文ママ)の東京大震災の時、根が呑氣で一風變つた人で、落付き拂ひ澄ましてゐたが、焼けて来たのでよんどころなく家財道具を残らず裏の墓地の真ん中へ持ち出して置いて、悠々と邊りを見物しながら避難した。
×
鎮火してから歸つてみると綺麗に家は焼き拂はれて一面の野原、墓地へ来てみると家財道具はそのままであるので『ヤレ/\、家は大家さんのもの、世帯道具は私のものだ』とばかり早速邊りの焼木杭や石碑を柱にして墓の塔婆を掻き集め家を作つて雨露を凌いでゐた
×
墓は随分淋しいところと思つてゐたが、住めば都で仲々賑やかでようがすよハゝゝゝゝゝと例の快笑一聲
×
斯うした名人音曲師も、佛の出入で墓場の賑はふお盆の十五日惜まれながら大往生を遂げた
昔の追悼記事は今見ても粋だと思ったりする。以上。