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津久井道番外編、甲州道中裏街道

前回

で、津久井道シリーズは一旦区切りなんですが、前々回

と、前回で取り上げられた、"入り鉄砲に出女", で、江戸から出ることが難しかった女性達が使った、

  • 江戸を出発、

  • 小仏関所を避ける為に東海道を選択、

  • 今度は箱根関所を避ける為、大磯から北上し伊勢原を経由して津久井へ、

  • 鼠坂の関所では宿屋の主人に幾らか払って世話してもらい通過

  • 甲州道中吉野宿へ、

  • 暫く甲州道中を行き、

  • 甲斐路の吉田、山中、御殿場、沼津と東海道に復帰

というルートを、但し今回は伊勢原から甲州道中吉野宿までを、津久井道番外編としてexploreしたいと思います。

◆□■◇

伊勢原まで輪行、大磯から伊勢原までは以前、渡来の道シリーズで訪れています。なので今回はショートカットして伊勢原から。

小田急小田原線伊勢原駅から神奈川県道63・64号線に乗り、川上のバス停で右斜めの道に入ります。こちらが八王子・府中通り大山道。直進は津久井通り大山道の宮ケ瀬ルートです。この道も行きますが、紅葉の季節にしたいと思ってます。

専修大学の看板の所を右に入る

専修大学伊勢原総合グラウンド、伊勢原市総合運動公園の間を縫う道です。ソコソコ上りますよ。

頂上に着いたら土道です。

峠の茶屋の少し前
峠の茶屋跡
地形的にはここが津古久峠ですね
でも碑は峠を越えた少し先にあります。

ここ津古久峠と、この先の小野神社がある小野地区は、ヤマトタケル伝承が残ります。

式内社小野神社

さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

ヤマトタケルが歌った古事記のこの歌の、"相模の小野", が、ここ厚木市の小野地区であるというのです。

小野神社は927年の延喜式に載る相模国13社の内の1社ですから、江戸時代でも有名だったでしょう。"出女" も旅の安全を祈願したはずです。

さて、ヤマトタケル伝承ですが、相模大野にある大沼神社にも同じ伝承が残ります。後年、"小野", が、"大野", になったというわけですね。関東の小野や大野といった地区には同じような伝承が残っているとも言えます。

小野地名あるあるのもう一つが小野小町伝承、ここにもあります。頂上の社は小野小町神社です。こちらも、"出女" も訪れたと思います。

先を行きましょう。渋田川と玉川の間の尾根である津古久峠を越えましたから、今度は、玉川と恩曽川の尾根を越え、更にその先、恩曽川と小鮎川の尾根を越えます。

小鮎川を千頭橋で渡ると少し先に千光寺があります。

千光寺

風土記によれば、

"大同二年(807年)弘法の開基と云傳ふ、本尊如意輪観音、慶安二年八月境内觀音領五石及龍田社地竹木諸役免除の御朱印を賜ふ、龍田社。末社に天神稲荷あり、觀音堂 千手観音を置く長一尺三寸弘法作"

とのことで、弘法大師空海所縁の古寺、古社ですね。こちらも小野神社同様、"出女" も旅の安全を祈願したはずです。

先を行きます。R412を越え、荻野川の谷に降り、渡り、日吉神社のある五差路を左折が津久井通り大山道ルートです。

正面の鳥居が日吉神社

ここを直進はここまで走ってきた八王子通り大山道、右斜めは府中通り大山道で、3つの大山道の辻ということになります。中世、近代の交通の要衝ということになります。

先を行きます。戒善寺です。

戒善寺

平安時代に天台宗の寺として草創され、1271年、日蓮が佐渡流罪となり、28日間依智郷(この地区の東)に滞在した折、当寺に立ち寄り、天台宗から日蓮宗に改宗しました。この時、釈迦如来立像を開眼したといいます。この釈迦如来立像、頼朝鎌倉入りの際、ここに陣を張り、持仏を安置したものといいます。

ここも古寺、名寺ですね。"出女" もお参りしたはずです。

また、興味深い話もありました。この辺りは自由民権運動が盛んで、板垣退助も訪れ、地元民権家7人の墓がこの寺にあるようです。

自由民権運動と聞いて思い出すのが町田です。

町田も自由民権運動が盛んで、その背景として、生糸がありました。町田には横浜港への絹の道、シルクロードが通っています。この道を通って生糸が横浜に運ばれると同時に、逆方向には、横浜の外国人居留区に住む外国人たちから、西洋の考え方や文化、政治システムが流れてきました。その1つが、"自由", "議会", "憲法", 等々といった考え方で、それが自由民権運動に繋がったのです。

前々回の中野村でご紹介のように、津久井は生糸の一大産地です。この津久井通り大山道は厚木に繋がっています。厚木からは厚木街道が絹の道として横浜に通っています。

ここ荻野も、町田と同じような理由で、自由民権運動が盛んになったのではないでしょうか。

先を行きます、早速、蚕影神社がありますね。やはりこの道はシルクロードでもあったんです。

金色姫が祀られているとのこと。しかし、祭神は豊受大御神。まあ、豊受大御神も蚕神として奉られてますから違和感はありませんが。

先を行きます、、、

霊峰大山

、、、出女も拝んだであろう大山に見守られながら、源氏河原です。

源氏河原

頼朝鎌倉入りの前、先祖源八幡太郎義家の子義隆の館があった風光明媚なこの地を源氏再興の地と定めようと一時逗留したとの伝承があります。戒善寺の釈迦如来立像の伝承と整合しています。

先を行きます、、、

このR412沿いの旧道は風情があって良いですね

、、、R412に復帰して、中津川の谷に下りまして、愛川田代の琴平神社です。ここにも頼朝伝承があります。

琴平神社
頼朝はこの石に腰掛けたそうです。
旅館ニュー甲州、この津久井通り大山道は完全に甲州道中として意識されてたんですね。こういう所に出てます。

平山橋で中津川を渡り、、、

平山橋
横から、美しい橋です

、、、馬渡橋で再び中津川を渡って、、、

渡った後の風景、中津川と愛川橋

、、、半原に入ります。

程無く、半原村村社半原神社です。中津川の向こう、向山にありましたが、1576年に山崩れがあり、こちらに移設しました。嘗ては諏訪大明神と言いました。

半原神社

津久井はお諏訪様が多いです。甲州への道筋ということがこうした形でも表れています。

前々回撮影、津久井道沿い中野の中野神社もお諏訪さまです。

ここ半原は、相模の三大養蚕地の一つとして養蚕が盛んで、半原の地形が撚糸業に必要な湿度を一定に保つこともあって、農家の副業として広まり、江戸期には半原絹が有名となりました。

やはりシルクロードです。

半原、撚り糸発祥の地碑

先を行きます、半原から韮尾根、串川、長竹と行きます。ここから上りです。

古道の風景、韮尾根。半原からここまでキツかった。登坂車線が設けられている坂でした。オギノパンで休憩せざるを得ませんでした。
古道の風景2, 長竹に入りました。右端はお不動さん、はい、この道が津久井通り大山道である証拠ですね

青山の青山神社もお諏訪さまです。

青山神社
青山神社脇の道が古道、ここに石塔が集められていました。

三ケ木の新宿では、そのままR412を行き、野尻から沼本の渡しを行く津久井道ルートもあったと思いますが、今回は、七曲坂を行くルートを行きます。

弁天橋を渡り、、、

七曲坂、その名の通り、七曲。何故7つも曲がってるか?!, 勾配がキツイということ。この通り。ここだけは押しました。
古道の風景
古道の風景、この地区は塞の神が多いですね

、、、神奈川県道517号線に到着したら鼠坂関です。

この辺り、立派な家が固まってます。昔からあるのではないでしょうか。だったら、出女に世話した宿屋だった?!

■◇◆□

如何でしたでしょうか。

荻野の辺りのR412沿いの旧道は、裏道として機能しているらしく、やや、交通量が多いですが、でも、R412よりはマシ。左に丹沢山塊を見ながら、良い道でした。

中津川を渡ってからは基本山道で、秋に再訪したいですね。にしても半原からオギノパンまではキツかったです。

七曲坂もキツかったです。あそこが上れるようになれば。次回再挑戦です。

関所を避けた、言わば違法な旅ですから、緊張感もあったんだと思います。

しかし、緊張だけでも保たないですから、今回紹介したような風景や寺社を楽しみながら旅したものと想像します。

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