日本のシルクロード、武蔵野台地の真ん中
日本のシルクロードシリーズ、これまで、
と、来ましたが、今回は武蔵野台地に戻って、武蔵野台地の真ん中、行政区で言うと、武蔵野市、西東京市、東久留米市、東村山市、所沢市、清瀬市、新座市、練馬区です。
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まずは何度も訪れている井之頭弁財天です。
府中の養蚕農家は、ここ井之頭弁財天の絵馬を鼠除けとして頂いていたそうです。
ご覧の通り、甲州道中の北側、武蔵野台地は一面の桑畑(YとL)で、歴史的にも、狛江から府中までは、渡来人エリアであり、養蚕技術が持ち込まれ、染地、布田、調布、白糸という地名からも分かる通り、養蚕が盛んでした。
ここ井之頭弁財天には宇賀神様もあって、益々霊験あらたかですね。
先を行きましょう、ここも以前訪問していました、阿波洲神社です。
ここに、昭和7年建立の敷石記念碑があるんですが、その寄付者が、養蚕組合でした。
ここは上保谷新田で、保谷村の人たちが1700年代前半に開発した新田なんですが、その保谷村は、風土記によれば、"保谷氏の人主にて開墾せし故にこの名あり", とあって、下田、岩崎、桜井、野口、中村らが開発したと伝えられています。
いやいやそのまんまですね。昭和7年といえば西暦で1932年。凡そ200年間、支配層が変わらないということです。
先を行きましょう、北に向かいまして、ここも何度かお邪魔している田無神社です。
ここ田無神社には、奉納された養蚕絵馬が5点、繭玉板が3点、あるそうです。
確かに府中程ではないにせよ、田無神社の周りは古地図では桑畑が散見されます。
また、現代地図を見て頂くと、画像右下に深大寺街道が確認できると思いますが、この道は南に行くとその名の通り深大寺に至り、更に南下すれば調布、矢野口の渡しで多摩川を渡って、府中街道で溝口まで、神奈川道で神奈川湊、横浜へと至る横浜街道とも、1859年の横浜開港以来は、呼ばれていたそうです。勿論、田無神社周辺の繭や生糸が運ばれたんでしょう。
先を行きましょう、六角地蔵通り、南沢通りと北西に進み、落合川を渡ってからは西へ。南沢神明社です。
wikiによれば境内社に蚕影社がある、ということでしたが、見つかりませんでした。相殿でしょうか。
古地図を見ると、1896 (明治29)- 1909 (明治42年)より、1917 (大正6) - 1924 (大正13)の方が、桑畑が増えてますね。この辺りでは大正に入ってから養蚕が益々盛んになったということですね。
柳窪の見事な屋敷林と古民家を眺めてから、北西に向かいまして東村山八坂神社です。
ここの境内社に蚕影神社がありました。
ここから狭山丘陵に向かいます。東村山東大和線を西へ、境通りを北へ、八国山から西武園駅の北側に回り込み尾根に上がります。暫く尾根を行って、ゴルフ場の真ん中を北へ、柳瀬川の谷に下ります。
上山口の熊野神社には、蚕影大権現がありました。
その後、トトロの森を上り、下りし抜け、
ここも何度も訪れている北野天神社です。
ここの境内社に、養蚕の神として崇敬された文子天神社があります。
それもそのはず、北野天神社の北側、東川の向こうには桑畑が広がっていました。
その後は所沢メインエリアです。まずは六所神社です。
ここの境内社に蚕影神社があります。
次に熊野神社境内社の幡織社です。
ここからは武蔵野台地の真ん中を世田谷に戻りました。
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如何でしたでしょうか。
意外に痕跡は多くなかったです。
これは2つあるように思います。
一つはやはり上水の近くじゃないと生きていけないので、武蔵野台地全体に広がることはできなかったんだな、ということ。
もう一つは歴史ですね。上記の通り、歴史が無い所に、大ブームになったから養蚕を始めたものの、1923年の世界大恐慌で不況となり、止める農家も多かったようです。