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武蔵国風土記を訪ねる、高麗郡街道、入間郡岩口〜我野

この、武蔵国風土記を訪ねる、高麗郡街道シリーズは、前回、入間川沿いを、入間郡岩口〜赤沢〜根岸へとexploreしました。

武蔵国風土記、高麗郡での街道の記述、

郡内に二條の往還あり、その一は秩父郡名栗村辺りよりの通路にて赤沢村より青木村中居村辺りまで三里許を経て両岐し南北に分かる。南は一里許を経て根岸村に達す、北も一里余りを経て入間郡岩口村に達す。

を、辿ったのです。

今回は、上記記述でも、二條あると書かれていますが、その二つ目をexploreしたいと思います。

又一條は秩父郡我野郷より三里余りを経てこれもまた岩口村に達す。

これです。

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風土記記述とは逆向きに行きます。高麗川駅まで輪行、前回行った入間郡岩口までは律儀に行くことはしませんが、前回ルートとの追分までは行くことにします。

四本木の板石塔婆を過ぎ、南平沢交差点手前で折り返すようにもくせい通りに入ります。

K30を越えると、稲野辺神社があります。

稲野辺神社、風土記によれば、"当社は鬼鹿毛と云、名馬の霊を祀りし所にて、もとは囃明神と号せしを、土人訛りていなのへと唱へり。今新田の地に古松一株あり。是かの馬を繋し木にて、古は此社その木のほとりにありしを、後当所に移せりと云。"

この神社のハイライトは、新田義貞でしょう。新田義貞が北条高時の鎌倉幕府を倒した1333年、上州新田庄から鎌倉街道上道を鎌倉に向かった新田義貞の軍勢はこの神社を訪れています。ここで休憩した際、軍馬が大いに嘶き、軍勢の勢いが盛んになったということで、この辺りのことは風土記に記載されてますね。

先を行きましょう、野々宮神社です。

野々宮神社、"天照太神、瓊々杵尊、猿田彦命、倭姫命を祭と云。慶安2年4石5斗の御朱印を賜ふ。例祭9月9日、当村及び楡木村・猿田村・新堀村・栗坪村等の鎮守なり。神職野之宮市正吉田家の配下なり。"

ここは再訪です。

linkにもありますが、ここは大変興味深い古社です。linkの繰り返しになりますが、埼玉の神社によれば、

"・・・社家である野宮家の先祖は日向国タカサダの地より来住したとされ、代々長男は高の字を名乗りに用いるという。また、同じ社号を持つ狭山市北入曾の 野々宮神社社家の宮崎家の口碑には、先祖は神武天皇東征に従い日向国より大和に入り、やがて朝命により兄弟三人東国に派遣される。一人は入間(北入曾)に、一人は高麗(当社社家先祖)に、一人は鴻巣に居を構えて、それぞれ 野々宮神社を祀り、土地の経営に当たったという。

社記に「四十二代文武天皇の大宝三年社殿修築」の記事がある。大宝三年(七〇三)とは、同元年に施行された大宝律令によって引田朝臣祖父が武蔵国の国司として赴任した年で、当社修築はこれにかかわるものであろう。なお、当時の国府は府中であったとされている。

霊亀二年(七一六)に駿河以東七カ国の高麗人一七九九人を当地方に移して高麗郡を設置する。社伝によると高麗王若光遠乗りの折、当社近くにて落馬し、これは身の穢によるとして当社前に祓を修した。また、野宮とは神宮に仕える斎宮が、奉仕に先立って一年間潔斎生活を送る斎殿を指している。当社は高麗川に、入間の野々宮神社は不老川に、鴻巣の野々宮神社は荒川にと、それぞれ川辺に鎮座し、祀職は祓の伝承地日向出身と伝えている、以上のことは 野々宮神社が“祓の社”としての役割を持っていることを物語るものであろう。・・・"

神武東征、引田朝臣祖父は恐らく最初の武蔵国国司です、それと高麗若光ですから。

先を行きましょう、高麗宿です。

高麗宿の風景、"大久保石見守が支配せし時、慶長二年高麗本郷にありける陣屋を当村に移し又本郷の内、高麗町の民戸もそこはく移り来て隣村梅原村の辺りまで軒を連ねて居をなすこと二町余りなり。しかば、彼の本郷にありし時の名を以てここを高麗町と唱え月毎に四八の日を市日となして賑わいし"
今昔マップより

黃点の高麗宿があるのは高麗川右岸です。こちらは両実線の大道が通っています。一方、"嘗て" 高麗陣屋があった高麗本郷元宿、赤点ですが、こちら高麗川左岸にも片実線片点線の古道が走っていますね。高麗川左岸道は、高麗と言えば、の、聖天院(緑点)と高(句)麗神社(青点)があります。以上の状況証拠を総合的に考えると、高麗川左岸の道が嘗ての主要ルートで、高麗陣屋移設後、道筋も右岸に移ったと考えても良いのではないでしょうか。

尚、ここ高麗本郷から北へ、清流峠、毛呂、越生、小川、寄居、深谷と行く道筋は、あの、渋沢栄一が江戸へ通った道と言われています。尚、南は、高麗峠、飯能、野田、笹井、扇町屋、所沢、秋津、江戸、という道筋です。

高麗宿、天神橋と行き、高麗川左岸を遡ります。

旧道と高麗川

R299に再び合流する少し前に、対岸ですが、摩利支天があります。

摩利支天、ここの岩盤は海底火山噴火跡で溶岩が露出しています。その上に摩利支天、何か意味があるのでしょうか。あるのでしょう、外観も他の岩盤とは明らかに異なりますし、高麗川はこの溶岩にぶつかり、大きく蛇行せざるを得ないのです。

さて摩利支天は人生2回目です。1回目も飯能でした。何かあるのでしょうか。

大河原の摩利支天これが1回目。左の鳥居の奥。正面の軍刀利神社の灯籠の向こう、少し陰になってます。

ここからはR299と旧道を行き来します。R299は相変わらずの交通量とダンプですが、旧道側はなかなか楽しいです。

まず、横手の集落には瀧泉寺があります。

瀧泉寺、"龍泉寺寶雲山観音院と号す。新義真言宗、京都小室仁和寺の末なり。本尊不動を安ず。慶安2年観音堂領9石の御朱印を賜ふ。当寺は萬寿元年の草創なりと云。開山開基を傳へず。古き過去帳に、大般若及天台四教共に箱入、小田原落城の節松田左馬助茲に納むとあり。此大般若天台四教、皆いづれも散逸して今はつたへずと云。"

北条氏直家臣、松田左馬助英春縁の寺です。この人物、秀吉の小田原征伐の際、秀吉に内応しようとした父憲秀と兄笠原政尭を阻止した、忠義に篤い武士でした。

松田氏といえば、あの東名大井松田インターの松田です。こんな離れた所に所領を持っていたのか?, と、思いましたが、小田原衆所領役帳に、松田左馬助の所領として、「廿五貫文 蘆苅庭」とありますから、北条の時代既に松田左馬助の領地だったのです。芦苅場は少し離れてますが高麗郡内です。

先を行きます。今回の武蔵風土記、高麗郡街道、現代のR299, 秩父往還は、高麗川沿いを遡る道ですが、崖が川岸まで迫っている所が多く、そういった所は、明治に入るまで道を通せず、渡河を繰り返していて、四十八瀬の高麗川と呼ばれていました。

瀧泉寺の直ぐ先もそうです。

旧道の大門橋、四十八瀬の高麗川
渡った先、追分にある石塔群、だからこの坂道も江戸期古道
旧道の道標、右はんのふ中山江戸道、左こま川ごえ坂戸道。今来た道は左の方。
うどんのお店関口屋の先、嘗てここで高麗川を渡っていました。道が残ってます。

高麗川を渡ると横手神社があります。

武幡横手神社、"村の鎮守なり。例祭7月26日。当社に蔵する棟札に、奉造営武州高麗郡横手村、諏訪大明神、大檀那大久保重兵衛殿、小檀那山口若狭守、于時慶長6辛丑2月、神主大野治郎とあり。又刀一腰を蔵む。銘正恒、長2尺5寸。是は村民半之丞が先祖山口郷左衛門の佩るところなりしを、当社に奉納すといふ。神職は大野越後なり。"

風土記の記述に付け加えますと、貞観12年870の創建と伝わる古社で八幡大神でしたが、貞治2年1363, 武御名方命を併祀して諏訪大明神と呼ばれるようになりましまた。尚、風土記にある小檀那山口若狭守は、瀧泉寺松田氏の被官です。

さて、ここから先は、武蔵国風土記を訪ねる、高麗郡街道シリーズの番外編の一つ、笹井観音堂の配下修験寺院の痕跡、阪石町分、南、中藤三郷、赤沢、原市場、小岩井、下加治、飯能、矢颪、前ヶ貫、で、走っていますが、目的が異なり、未訪問の寺社もありますので、引き続き高麗川を遡ります。

早速、武蔵横手駅の西側には、四十八瀬の高麗川、ここも嘗ての渡河点。

武蔵横手駅西の嘗て高麗川を渡った所、藪にトンネルが。しっかりと道が残ってますね。対岸は上記link時に訪ねています。

旧道を行って白子集落に入りますと、長念寺があります。

長念寺、"清流山と號す、曹洞宗、中山村能仁寺末なり、蔵する所の古文書によりて考れば、古き寺なること知らる、天正十九年寺領十石の御朱印を賜ふ、本尊觀音首木の立像長三尺五寸運慶の作なり、開山能仁寺四聖格外玄逸、慶長八年三月廿八日寂す、こゝに開山と云るは中興なるべし・・・"

1353年から9年間、鎌倉公方足利基氏は、鎌倉を出て、入間川に陣を設置しました。狭山市駅付近と言われています。この寺は、この9年の間、高麗郡の拠点寺院として機能したと言われています。

ここの観音堂の観音様、良かったです。

室町初期

長念寺の先も四十八瀬の高麗川。

上記リンクで前回来た時は丸太が架かってませんでした。今回はありますね。渡ってみます。
石垣も残っていてます。

先を行きましょう、虎秀集落に入りますと、吾那神社があります。

吾那神社、"虎秀村熊野社、天正十九年社領九石の御朱印を附せらる、當村及び平戸村の鎮守なり、例祭九月十九日、東明寺の持なり", "白子村白髭神社、村の鎮守とす、例祭六月十五日なり、永禄七年當社造營の棟札に、大石孫二郎殿百姓衆とあり、外に刀一振を社寶とす、長三尺三寸、無銘、これは中山勘解由が家臣加治某、八王子城落去の時帶せし刀なり、小瀬戸村の民長十郎が先祖某、當社に奉納せしと云、長十郎は加治氏なり、神職蘭幕加賀吉田家の配下"

ここから南に東峠を越えた小瀬戸の長十郎が太刀を治めたとあります。鎌倉期に活躍したこの地の武士、岡部氏はここ東吾野から東峠を越えて小瀬戸に移住しましたが、時代が下って戦国期には、加治氏・中山氏にも同じような行き来があったということでしょうか。

先を行きましょう、東吾野郵便局から右に入ります。少し先に、福徳寺があります。

福徳寺、"陽秀山と號す、臨済宗、上井上村興徳寺の末なり、慶安二年彌陀堂領二石五斗の御朱印を賜ふ、本尊釋迦を安ず、開山寶山建暦二年に草創せしと云、入寂は寛喜三年二月二十五日なりといへり、"

奥多摩もそうですが、山奥だからでしょうか、この辺りの寺はこのような素朴な作りが多いように思います。

そしてここには何と国重文阿弥陀堂がありました。

阿弥陀堂、国指定重文

R299に戻って、ここから吾野トンネルまでは旧道に退避出来ず、歩道走りです。

暫く進み、井上の集落で鎌倉峠を越え秩父郡に入りますが、鎌倉峠は上記リンクで実走済みなのでパスし、

鎌倉峠、高麗郡と秩父郡の郡境、2024/12撮影

R299を行って、吾野トンネル手前で旧道に入り、だからもう秩父郡に入ってしまってるわけですが、西武池袋線の高架を潜り、吾野宿には入らず、吾野トンネル出口の方に行くとここに日本武尊伝承がある借宿神社があります。

借宿神社、"社傳に往古日本武尊東夷征伐の時、この所にかりやどしたまふ故に、日本武尊を祀りて借屋戸明神と稱せりと云、神體圓鏡二つ、各五寸八分、銘に借宿大明神、願主道久、武州高麗郡我野郷之内長澤村、永正十二年乙亥二月吉辰とあり、二面とも銘同じ、永正十二年の棟札に、大旦那三田平朝臣政定とあり、例祭九月九日、下我野郷五ヶ村の鎮守なり、神職加藤蔵人吉田家の配下なり"
独特のデザインの狛犬、大正期の作品

ここで折り返します。まだお昼、少し時間があるので、高麗川左岸の尾根の山上集落に続く道が幾つかあるので寄り道しましょう。

早速、借宿神社から高山不動に行く道がありますが、高山不動は秩父郡です。顔振峠に行く道もありますが顔振峠も秩父郡です。

ということで虎秀まで戻り、先程は福徳寺で折り返した道を阿寺まで上ってみます。

新田の集落

間野の集落に道標がありました。

右阿すわ、たきの○○道
左阿寺、諏訪神社

道標に従い左を採ります。勾配も徐々に上がってきました。つづら折れに入ってからはかなりキツイ。ジグザグ走法で何とかしのぎます。

隆起がよく分かる地層などもあり

漸く、宗林禅寺に到着です。

宗林禅寺、"案雲山と号す、臨済宗、井上村興徳寺末なり、本尊地蔵木の坐像長さ九寸二分運慶の作なり、弘長年中草創、開山月峯示寂年月を伝えず"

ここからは、奥武蔵グリーンラインを東に行って、横手に下ろうかと思ってましたが、まだ少し時間も体力も余裕があったので、予定変更して顔振峠に向かうことにしました。Googleマップによれば距離2キロで平均勾配5%だったので。

ご褒美、絶景

宗林禅寺までで充分削られた足には楽ではありませんでしたが、漸く、顔振峠です。

顔振峠
平九郎茶屋

青天を衝け、の大河ドラマでご覧になった方もおられると思いますが、渋沢栄一の養子、渋沢平九郎が、飯能戦争で敗走し、本日走ったこの道を吾野宿まで来て、故郷の深谷に向かおうと、借宿神社からここ顔振峠に来ました。ここで、茶屋の主人から、越生には官軍がいるから秩父に向かった方が良いと進言されますが、死を覚悟してたのでしょうか、越生を通る故郷深谷への道を選び、この先の黒山で討たれてしまいます。

平九郎も見た絶景

さて、折り返して奥武蔵グリーンラインで横手に向かいます。下り基調なので余裕だろうと思ってましたが、確かに、宗林禅寺まではそうでしたが、そこからは尾根に向かって再びの上り。

一本杉峠
天文岩

と、来ましたが、この時点で3時過ぎ。日没は5時。諦めて下界に下りましょう。天文岩の少し先から虎秀に下る道があります。ずっと、旧坂でしたが何とか下り立ち、飯能までR299をファストライド、東飯能から輪行で帰りました。


如何でしたでしょうか。

この道はリンクがあるように三度目ですが、本当に交通量が多い。しかも、ダンプが多い。しかも、センターラインにポールが立ってるので、車も追い抜きしづらそうで、益々、プレッシャーがかかる道です。

が、旧道が所々残りますし、四十八瀬の高麗川を探検するのも楽しい道でした。

また、こんな山奥ですが、基本、江戸期になってというより、平安から鎌倉にかけて開かれた歴史ある古い道、集落でした。

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