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道興が歩いた道、廻国雑記を辿る〜②十玉ヶ坊(志木市幸町) → 堀兼の井(狭山市堀兼) → 入間川(狭山市入間川) → 佐西観音堂(笹井観音堂、狭山市笹井) → 黒須(入間市春日町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)

このシリーズの前回は、

①相模国・半沢(町田市図師) → 武蔵国・霞ノ関(多摩市関戸) → 恋ヶ窪(国分寺市) → 宗岡(志木市上宗岡) → 十玉ヶ坊(志木市幸町), ※最後の十玉ヶ坊は記載がありませんが、宗岡の直ぐ近くです。宗岡を訪れた後、十玉ヶ坊に宿泊したものと推測します。以下、同様に解釈。

を、exploreしました。

道筋は府中通り大山道と完全に重なってましたが、新たな視点でのサイクリングは、正に、時空を越えたexploreでした。

今回は、

②十玉ヶ坊(志木市幸町) → 堀兼の井(狭山市堀兼) → 入間川(狭山市入間川) → 佐西観音堂(笹井観音堂、狭山市笹井) → 黒須(入間市春日町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)

を、行きます。

十玉ヶ坊から堀兼の井へのルーティングですが、この辺りは、やせの里、です。遠回りにはなりますが、柳瀬川沿いに所沢まで行き、鎌倉街道堀兼道で向かったのだと思います。

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スタートはここ、十玉ヶ坊(志木市幸町), 2024/11撮影

写真に写るこの道は鎌倉街道です。道興もこの道を行ったものと思われます。

この鎌倉街道は、大和田の鎌倉街道に繋がっています。

大和田氷川神社、802年の創建と伝わる古社、2022/10撮影
普光明寺、806年開創、2022/10撮影
大和田の鎌倉街道、2022/10撮影

大和田氷川神社や普光明寺が、800年代に開かれ、集落ができて、そこを鎌倉街道が通るようになり、嘗て大和田の中心地はこの辺りでした。道興も通ったはずです。

この後の道筋ですが、幾筋か考えられますが、私はここで柳瀬川を渡ったと考えています。西武台高校の地に嘗てあった中野村熊野神社を、道興は、訪れたのだと思うのです。

歴史的農業環境閲覧システムより、迅速測図の十字マークを中野村熊野神社の直下に配置しました。中野村熊野神社は、今は大和田氷川神社に合祀されています。

先を行きます、道はやがて滝の城址公園に入り、ここの城山神社には、承暦年中(1077 - 1081)勧請の熊野神社がありました。道興はここにも寄ったと、私は思っています。

城山神社、風土記によれば、"熊野社、これも城迹の内にて東の方にあり、龍蔵院の持ち" "龍蔵院、八幡免除の内に住す修験なり" とあります。この修験が、どの修験かということですが、十玉ヶ坊の霞内ですから、十玉ヶ坊配下の本山派修験と思われます。

柳瀬川河岸段丘下の道を進み、

あかばっけ、ばっけ、はっけ、はけ = 崖です。赤土の崖なんでしょう。

所沢駅近くまで行きますと、西新井に熊野神社がありますが、道興は、ここも訪問したと思います。

西新井熊野神社、弘化二年1845の祈禱殿再建縁起には、熊野宮の創始は古く、その本地は奥社に祀られる日本武尊で、長禄三年1459三上山城守清定に神感があり熊野宮を再興したと記されている、とのこと

さぁ、峰の坂を上り、鎌倉街道上道と堀兼道の追分を右にとり進みます。

右が堀兼道
正面の二つの道路に挟まれた緑地部分が、東山道武蔵路です。それを踏襲したのが鎌倉街道堀兼道です。久し振りに来ましたが、やっぱり、(ボキャブラリー無しで恐縮ですが)凄い道路遺構ですね。

ひたすらに真っ直ぐな鎌倉街道堀兼道を進むと、やがて、堀兼の井に至ります。

堀兼の井

堀兼の井で道興が詠んだ歌は、

堀兼の井見にまかりてよめる。今は高井戸といふおもかげぞ語るに残る武蔵野や、ほりかねの井に水はなけれど
昔たれ心づくしの名をとめて、水なき野べを堀かねのゐぞ

ここは、武蔵野台地のど真ん中、水が出ず、人っ子一人住んでない土地です。勿論、熊野神社もありません。

道興は、ここが名所であるが故、訪れたのだと思います。

  • あさからす思へはこそほのめかせ 堀金の井のつつましき身を、源俊頼、1055 - 1129

  • 武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近づきにけり、藤原俊成、1114 - 1204

  • くみてしる人もありなん自づから 堀兼の井のそこのこころを、西行法師、1118 - 1190

  • いまやわれ浅き心をわすれみす いつ堀兼の井筒なるらん、慈円、1155 - 1225

このように、堀兼の井は、数多く歌われてきた名所だったのです。

堀兼の井を過ぎて直ぐ、視界が開けます。

武蔵野台地、北西の眺望

やせの里は、やがて此の続きにて侍り。
里人のやせといふ名や堀兼の、井に水なきを侘び住むらむ

道興は、堀兼の井でこの歌も詠んでいますが、やせの里、とは、痩せた土地、水が出ず、人が暮らすことができない土地ということで、今は水を何とかして畑になっていますが、真っ平らな様子を見ると、当時の薄野原が見えてくるようです。

先を行きましょう、西武新宿線、現代のR16, 嘗ての入間川道を越え、入間川河畔へと至るとここは鎌倉街道堀兼道の八丁の渡しで、ここに、九頭竜大権現が祀られています。

嘉永3年1850, 12月に造立

九頭竜大権現といえば水の神様です。度重なる入間川の氾濫を鎮めるべく、建立されたのだと思われます。

ここで道興は、

これよりいるま川にまかりてよめる、
立ちよりて影をうつさば、入間川、わが年波もさかさまにゆけ
此の河につきて様々の説あり。水逆に流れ侍るといふ一義も侍り。また里人の家の門のうらにて侍るとなむ。水の流るる方角案内なきことなれば、何方をかみ下と定めがたし。家々の口は誠に表には侍らず。惣じて申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。異形なる風情にて侍り。

と、詠んでいます。

入間川は下図ご覧の通り、ここから少し下流で、嘗て、荒川にほぼ直角に合流していましたから、増水時は水が逆流したんですね。

歴史的農業環境閲覧システムより、今は流路変更され、なだらかに合流しています。
狭山大橋から荒川合流方向を望む

九頭竜大権現は、この逆流の象徴だと思いました。

先を行きます。道興は、笹井観音堂を訪問しています。

佐西の観音寺といへる山伏の坊に到りて、四五日遊覧し侍る間に、瓦礫ども詠じ侍る中に、

南帰北去一李闌 露宿風食総不安
贏得行金乗詩景 千峰萬壑雪団々

現在の観音堂、2024/8撮影
内部、真中の厨子の中に役行者作十一面観音、2024/8撮影

笹井観音堂は、本山派二十七先達の一つで、高麗郡、杣の保、入間郡の一部を霞 = 支配地域、としていました。

この東国巡礼は、入間郡を霞とした十玉ヶ坊を中心に廻っているように思いますが、隣り合う笹井観音堂を、訪れないわけには行きませんね。

四五日の遊覧の中で、鎮守白髭神社にも訪問していました。

笹井白髭神社、2024/8撮影

恐らくここにも訪れていたと思われます。笹井観音堂の旧地です。

笹井滝不動

役行者はここで滝行をしたと言います。ここは入間川の河岸段丘の崖ですから、写真のように今でも水が絶えません。

さて、笹井観音堂での四五日の遊覧を終えた道興は、入間川を渡り、ここでも歌を詠んでいます。

くろす川といへる川に、人の鵜つかひ侍るを見て、
岩がねに移ろふ水のくろす川、鵜のゐる影や、名に流れけむ
故郷の事など思ひ出で侍りて、暁まで月に向ひて、
吾郷萬里隔音容 一別同遊夢不逢
客裡断陽何時是 西山月落暁楼鐘

豊水橋から黒須付近の入間川を望む、鵜飼はいませんでしたが

この後の廻国雑記の記述が、

ささいをたちて、武州大塚の十玉が所へまかりけるに、

ですから、黒須の後、十玉ヶ坊に帰ったわけですが、どのルートだったのか。

鎌倉街道上道と考えるのが妥当と思います。

狭山市駅を過ぎ、つつじ通りk227が鎌倉街道上道です。自転車レーンがあり、とても走り易い。

北入曽に入りますとここに七曲井があります。

七曲井

井戸があまりに深く、底部に行く道が七曲だったので、七曲井なのですが、じつはここも、堀兼の井の推定地の一つなのです。

ここの住所は、北入曽字堀難井、なのですが、堀難、は、ほりかね、と読むのです。ですからこのまいまい井戸は、ほりかねの井なのです。

ですからもしかしたら、道興が歩いたのは、こちらかもしれません。。。。。

と、書いたのですが、風土記と狭山市立博物館の修験の世界を確認した所、ハッキリとしました。

風土記によれば、

"稲荷社、野々宮明神社、以上二社は修験宝泉寺の持ちなり"

狭山市立博物館によれば、この宝泉寺は、本山派で、笹井観音堂配下寺院でした。

往路に鎌倉街道堀兼道(東山道武蔵路)を通り、復路に鎌倉街道上道を使ったのではなく、鎌倉街道上道を往復したと見られます。

野々宮明神社

如何でしたでしょうか。

②十玉ヶ坊(志木市幸町) → 堀兼の井(狭山市堀兼) → 入間川(狭山市入間川) → 佐西観音堂(笹井観音堂、狭山市笹井) → 黒須(入間市春日町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)

は、正に、笹井観音堂を訪れた回だったと言えます。この武蔵国入りでは、既述のように、十玉ヶ坊を拠点としながらも、隣の霞を支配した笹井観音堂にも訪問して、入間郡、高麗郡の組織化、強化を図ったものと思われます。


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