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道興が歩いた道、廻国雑記を辿る〜②十玉ヶ坊(志木市幸町) → 堀兼の井(狭山市堀兼) → 入間川(狭山市入間川) → 佐西観音堂(笹井観音堂、狭山市笹井) → 黒須(入間市春日町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
このシリーズの前回は、
①相模国・半沢(町田市図師) → 武蔵国・霞ノ関(多摩市関戸) → 恋ヶ窪(国分寺市) → 宗岡(志木市上宗岡) → 十玉ヶ坊(志木市幸町), ※最後の十玉ヶ坊は記載がありませんが、宗岡の直ぐ近くです。宗岡を訪れた後、十玉ヶ坊に宿泊したものと推測します。以下、同様に解釈。
を、exploreしました。
道筋は府中通り大山道と完全に重なってましたが、新たな視点でのサイクリングは、正に、時空を越えたexploreでした。
今回は、
②十玉ヶ坊(志木市幸町) → 堀兼の井(狭山市堀兼) → 入間川(狭山市入間川) → 佐西観音堂(笹井観音堂、狭山市笹井) → 黒須(入間市春日町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
を、行きます。
十玉ヶ坊から堀兼の井へのルーティングですが、この辺りは、やせの里、です。遠回りにはなりますが、柳瀬川沿いに所沢まで行き、鎌倉街道堀兼道で向かったのだと思います。
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写真に写るこの道は鎌倉街道です。道興もこの道を行ったものと思われます。
この鎌倉街道は、大和田の鎌倉街道に繋がっています。
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大和田氷川神社や普光明寺が、800年代に開かれ、集落ができて、そこを鎌倉街道が通るようになり、嘗て大和田の中心地はこの辺りでした。道興も通ったはずです。
この後の道筋ですが、幾筋か考えられますが、私はここで柳瀬川を渡ったと考えています。西武台高校の地に嘗てあった中野村熊野神社を、道興は、訪れたのだと思うのです。
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先を行きます、道はやがて滝の城址公園に入り、ここの城山神社には、承暦年中(1077 - 1081)勧請の熊野神社がありました。道興はここにも寄ったと、私は思っています。
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柳瀬川河岸段丘下の道を進み、
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所沢駅近くまで行きますと、西新井に熊野神社がありますが、道興は、ここも訪問したと思います。
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さぁ、峰の坂を上り、鎌倉街道上道と堀兼道の追分を右にとり進みます。
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ひたすらに真っ直ぐな鎌倉街道堀兼道を進むと、やがて、堀兼の井に至ります。
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堀兼の井で道興が詠んだ歌は、
堀兼の井見にまかりてよめる。今は高井戸といふおもかげぞ語るに残る武蔵野や、ほりかねの井に水はなけれど
昔たれ心づくしの名をとめて、水なき野べを堀かねのゐぞ
ここは、武蔵野台地のど真ん中、水が出ず、人っ子一人住んでない土地です。勿論、熊野神社もありません。
道興は、ここが名所であるが故、訪れたのだと思います。
あさからす思へはこそほのめかせ 堀金の井のつつましき身を、源俊頼、1055 - 1129
武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近づきにけり、藤原俊成、1114 - 1204
くみてしる人もありなん自づから 堀兼の井のそこのこころを、西行法師、1118 - 1190
いまやわれ浅き心をわすれみす いつ堀兼の井筒なるらん、慈円、1155 - 1225
このように、堀兼の井は、数多く歌われてきた名所だったのです。
堀兼の井を過ぎて直ぐ、視界が開けます。
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やせの里は、やがて此の続きにて侍り。
里人のやせといふ名や堀兼の、井に水なきを侘び住むらむ
道興は、堀兼の井でこの歌も詠んでいますが、やせの里、とは、痩せた土地、水が出ず、人が暮らすことができない土地ということで、今は水を何とかして畑になっていますが、真っ平らな様子を見ると、当時の薄野原が見えてくるようです。
先を行きましょう、西武新宿線、現代のR16, 嘗ての入間川道を越え、入間川河畔へと至るとここは鎌倉街道堀兼道の八丁の渡しで、ここに、九頭竜大権現が祀られています。
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九頭竜大権現といえば水の神様です。度重なる入間川の氾濫を鎮めるべく、建立されたのだと思われます。
ここで道興は、
これよりいるま川にまかりてよめる、
立ちよりて影をうつさば、入間川、わが年波もさかさまにゆけ
此の河につきて様々の説あり。水逆に流れ侍るといふ一義も侍り。また里人の家の門のうらにて侍るとなむ。水の流るる方角案内なきことなれば、何方をかみ下と定めがたし。家々の口は誠に表には侍らず。惣じて申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。異形なる風情にて侍り。
と、詠んでいます。
入間川は下図ご覧の通り、ここから少し下流で、嘗て、荒川にほぼ直角に合流していましたから、増水時は水が逆流したんですね。
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九頭竜大権現は、この逆流の象徴だと思いました。
先を行きます。道興は、笹井観音堂を訪問しています。
佐西の観音寺といへる山伏の坊に到りて、四五日遊覧し侍る間に、瓦礫ども詠じ侍る中に、
南帰北去一李闌 露宿風食総不安
贏得行金乗詩景 千峰萬壑雪団々
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笹井観音堂は、本山派二十七先達の一つで、高麗郡、杣の保、入間郡の一部を霞 = 支配地域、としていました。
この東国巡礼は、入間郡を霞とした十玉ヶ坊を中心に廻っているように思いますが、隣り合う笹井観音堂を、訪れないわけには行きませんね。
四五日の遊覧の中で、鎮守白髭神社にも訪問していました。
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恐らくここにも訪れていたと思われます。笹井観音堂の旧地です。
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役行者はここで滝行をしたと言います。ここは入間川の河岸段丘の崖ですから、写真のように今でも水が絶えません。
さて、笹井観音堂での四五日の遊覧を終えた道興は、入間川を渡り、ここでも歌を詠んでいます。
くろす川といへる川に、人の鵜つかひ侍るを見て、
岩がねに移ろふ水のくろす川、鵜のゐる影や、名に流れけむ
故郷の事など思ひ出で侍りて、暁まで月に向ひて、
吾郷萬里隔音容 一別同遊夢不逢
客裡断陽何時是 西山月落暁楼鐘
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この後の廻国雑記の記述が、
ささいをたちて、武州大塚の十玉が所へまかりけるに、
ですから、黒須の後、十玉ヶ坊に帰ったわけですが、どのルートだったのか。
鎌倉街道上道と考えるのが妥当と思います。
狭山市駅を過ぎ、つつじ通りk227が鎌倉街道上道です。自転車レーンがあり、とても走り易い。
北入曽に入りますとここに七曲井があります。
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井戸があまりに深く、底部に行く道が七曲だったので、七曲井なのですが、じつはここも、堀兼の井の推定地の一つなのです。
ここの住所は、北入曽字堀難井、なのですが、堀難、は、ほりかね、と読むのです。ですからこのまいまい井戸は、ほりかねの井なのです。
ですからもしかしたら、道興が歩いたのは、こちらかもしれません。。。。。
と、書いたのですが、風土記と狭山市立博物館の修験の世界を確認した所、ハッキリとしました。
風土記によれば、
"稲荷社、野々宮明神社、以上二社は修験宝泉寺の持ちなり"
狭山市立博物館によれば、この宝泉寺は、本山派で、笹井観音堂配下寺院でした。
往路に鎌倉街道堀兼道(東山道武蔵路)を通り、復路に鎌倉街道上道を使ったのではなく、鎌倉街道上道を往復したと見られます。
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如何でしたでしょうか。
②十玉ヶ坊(志木市幸町) → 堀兼の井(狭山市堀兼) → 入間川(狭山市入間川) → 佐西観音堂(笹井観音堂、狭山市笹井) → 黒須(入間市春日町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
は、正に、笹井観音堂を訪れた回だったと言えます。この武蔵国入りでは、既述のように、十玉ヶ坊を拠点としながらも、隣の霞を支配した笹井観音堂にも訪問して、入間郡、高麗郡の組織化、強化を図ったものと思われます。