八王子通り大山道、当麻、望地、田名の各ルート
大山道シリーズ、これまで、
と、実走しました。
相模川と酒匂川の間の東海道から出る大山道は全て制覇、江戸方面も、柏尾通り、田村通り、保土ヶ谷通りと制覇しています。
今回は、前回、前々回同様、メジャー所ではあるものの行かずにいた、八王子通り大山道です。こちらももう何度も走ってるものですから。
1560年、上杉謙信は、北条氏康が籠もる小田原攻めを行いました。
越後を出発し、三国峠を越え関東に入ると早速沼田城を攻略、岩下城、厩橋城、那波城、羽生城と次々と攻略します。
一方、氏康は、河越城を経由して松山城に入って謙信と対峙の姿勢をとったものの、10万に膨らんだ謙信軍の勢いから、小田原城での籠城を決め、撤退します。
謙信軍は、同じく籠城策を取った河越城、滝山城等にちょっかいを出しながらも深追いはせず、本丸小田原城へと向い、明け1561年3月、謙信軍先手は、当麻に陣取り、中筋(中郡), 大槻、曽我山、怒田山と進み、下旬には酒匂宿に陣を張り小田原城を包囲します。
謙信旗本は、鶴岡八幡宮に勝利の願文を収めた後、藤沢、平塚と海沿いを進軍し、先手に合流しています。
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ということで、河越、滝山、当麻ですから、謙信軍は、八王子通り大山道を来たということになります。
大山詣が盛んになったのは江戸に入ってからですが、少なくとも1560年には、八王子通り大山道は、大山詣の目的ではないにせよ、開かれていた。
つまり、八王子通り大山道の最初期ルートと言えます。
当麻宿は、1518年に北条氏より出された制札にその名が見られ、風土記にも、大住郡須賀村の村民が所蔵する文書に、天正の頃、北条氏から出された文書に当麻の渡津のことが書かれている、と、記載されています。
更に遡って1518年ですね。
さて、望地ルートですが、1841年の風土記には、渡し機能が久所の渡し(.田名)に移っていることが書かれていて、ですので、八王子通り大山道は、当麻 → 望地 → 田名と、変遷していったことが分かります。
ということで今回は、八王子通り大山道を、古い順に行ってみたいと思います。
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八王子まで輪行、、、と、思ってましたが雨。折角5時起きしたのに。
ということで二度寝後、予定変更。雨が止んだ9時半過ぎに出発、橋本まで輪行です。
甲州道中の八王子口から橋本までは何度も走っているので割愛です。
橋本から少し戻るように両国橋、ここの上流7, 80m地点の淵が、大山参詣の精進場です。漸くの大山道の史跡です。
橋本宿を行き、橋本石神線との交差点付近には、相模原市設置の大山道の碑がありますが趣は無いのでスルー、橋本の棒杭です。
ここが当麻ルートと、望地・田名ルートとの追分で、まずは古い方、当麻ルートに行きます。
ここからは暫くR129です。
作ノ口からは旧道に入り、鳩川を渡る千年橋にはお不動さんを乗せた大山道道標があります。
少し行って磯部方面への道との追分にもお不動さんが乗る大山道道標があります。
その後、上溝南高辺りで、R129に合流し、直ぐにまた別れて旧道へと入り、無量光寺の西を南下し当麻の渡しへと至ります。
昭和橋で相模川を渡りますが、渡り終えて直ぐの所に依知神社があり、ここの大銀杏は頼家手植えとの伝承があります。
旧道を行きます。すると、妙傅寺があります。
1271年、日蓮が佐渡へ流される際、ここを通り、領主横山党本間六郎重連の居館にあった観音堂に逗留、月に向かって祈った所、館内の梅の木に明星が降臨するという奇跡が起こり、それを見た重連は日蓮宗に帰依、本寺を開いたといいます。
横山党といえば、起点の八王子は横山党の本拠地です。また、日蓮の佐渡配流ルートは、八王子から川越、中山道を経由して北国街道でしょう。
ということで、八王子通り大山道当麻ルートは、1560年の謙信小田原攻めどころか、日蓮が佐渡へ流された1200年代後半、もしかしたら横山党が相模に進出した鎌倉初期に遡ることが出来ると、いうことになります。古い道ですね。
先を行きましょう、堂坂で相模川右岸の河岸段丘に上ります。
この道はこのまま八王子道となって、南下すると前回の府中通り大山道に接続しますが、この八王子通り大山道は、この大山道道標で西進します。
因みに東は猿ヶ島・磯部の渡しへ至ります。
西進し、
諏訪坂で相模川の河岸段丘を下る前、ここに題目供養塔がありました。
隣りにある小さな道標には星梅山星降院妙伝寺への案内があり、はい、そうです、先程の妙伝寺ですね。今来た道が正しい道筋である1つの証拠ですね。
諏訪坂を下り、
才戸の渡しで中津川を渡り、荻野新宿に至ります。
直ぐに才戸橋を折り返して、西から合流する堤道が、八王子通り大山道の望地・田名ルートなんです。
ということで、才戸の渡しは渡らずに、八王子通り大山道望地・田名ルートを行きます。
堤道を行って、坂本坂で中津川左岸河岸段丘を上ります。
河岸段丘に上がったらここで右折して、
あとは、基本、神奈川県道63号を行きます。旧道を選びながら。
途中、望地ルートが東から合流してきますが、工業団地になっていて消失、迂回して、六倉の渡しです。
そして、迅速測図を見ていて面白いことが分かりました。
まず迅速測図の紫、ここに、望地弁財天があったんです。望地弁財天は、日本のシルクロードシリーズ相模原台地編で訪問しています。
それから航空写真地図の青、残ってますね、古道が。
最後に赤、これは想定外でした。雨降神社がありますよ、大山道の痕跡です。
八王子通り大山道田名ルートに復帰します。小沢坂を下る直前に大山道道標があります。
その後、小沢坂を下り、
高田橋で相模川を渡りますが、ここは嘗て小沢の渡しでした。が、渡り切る前に、振り返って小沢古城です。
ここは横山党小沢氏の城です。横山党、そう、当麻ルートで相模川を渡って直ぐの領地は横山党本間氏でした。横山党、頻出します。
高田橋で相模川を渡って、田名八幡宮までが田名のメインストリートで、大山詣、その後は鮎、で、大いに賑わったそうです。
白坂で河岸段丘を上がりますがここに大山道の痕跡。
河岸段丘を上がったら、
田名ルートを行かず、望地ルートに行きましょう。
蚕影神社、ここに、大山道道標があります。ここも日本のシルクロードシリーズ相模原台地編で訪問しています。
更に、ここは、横山党田名氏の城趾とも言われています。相模川を挟んで横山党田名氏、小沢氏ですね。
こうなると、やはり八王子通り大山道は、横山党の進出ルートでもあったんですね。
このまま望地ルートを望地の渡しまで行きます。
南光寺の門前にはお不動さんが乗る大山道道標があります。
うま坂で河岸段丘を下ると望地の渡しですが、ここに大山道道標があります。
折り返し帰路としますが、最後、石神社境内に、お不動さんが乗る大山道道標があります。
もう、あとは、橋本まで何もありません。橋本から輪行で帰りましょう。
如何でしたでしょうか。
八王子通り大山道は大山道なんですが、当麻ルートも田名・望地ルートも、八王子を本拠地とし、平安後期から鎌倉初期に活躍した横山党が、相模へ進出したルートでもあり、古い道筋だったということが分かりました。
だから、謙信も進軍ルートに採用し、今回取り上げませんでしたが、信玄も、1569年の小田原攻めの際、先手がこのルートを進軍しています。
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