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狭山丘陵南麓の天王様信仰、その2
前回その1の続きです。
実は阿豆佐味天神社で心残りがありました。
須賀神社が見つからなかったことと、奥宮です。
須賀神社が境内で見つけられず、一方で、奥宮があるということだったので、奥宮がある所に須賀神社があるのでは、ということで、探してみたいと思っていたのです。
今回その2で行ってみました。阿豆佐味天神社の裏山のピークが怪しいと目星を付け、5分ほどでピークに到着です。
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しかし何もありませんでした。
じゃあ何処なんだと思いに耽りながら下山すると右側に空間が。
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右側の石塔群は、彫られた文字が判別できなかったんですが、左の碑は、はっきりと判読できました。この空間は、阿豆佐味天神社の宮司のお墓だったのです。
プライベート空間なので詳細は控えます。が、写真のように祠も2基ありますから、恐らくこれらが奥宮と須賀神社なのではないかと想像しています。
さて宿題をクリアしましたので、先を行きましょう。狭山観音霊場二十四番禅昌寺です。
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さて、次は、スサノオノミコトでも狭山観音霊場でもありませんが、このストーリーで欠かすことができない、六地蔵です。
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ここはご覧の通り展望テラスもあって、ハイキングコースの立ち寄りスポットになっていますが、歴史を知ると楽しいばかりではいられません。
ここは元火葬場です。火葬場や塚は村境に設けられるケースが多いですが、ここもそうですね。明治30年1897に赤痢が大流行し、この辺りで51人も亡くなりここで火葬したのです。六地蔵は、それを弔う為、念仏講が造立しました。
この赤痢大流行ですが、明治25年1892年から明治32年1899の8年間は、年間患者数が5万人以上という大流行期間でした。
調べると、江戸三大飢饉だけじゃない、飢饉だけじゃない、赤痢だけじゃないんです。江戸時代、村山の人たちが、駄賃稼ぎで行き来した江戸で被害が出たものだけを並べると、
1636〜42, 寛永飢饉、1637年に発生した島原の乱の遠因とも
1708〜09, 麻疹大流行、綱吉も感染、死去
1716, インフルエンザ大流行、8万人が死亡
1732, 享保の大飢饉
1733〜34, インフルエンザ大流行
1769, インフルエンザ大流行
1773, 謎の疫病大流行
1776, 麻疹大流行
1782〜1788, 天明の大飢饉
1821, インフルエンザ大流行
1832, インフルエンザ大流行
1833〜1839, 天保の大飢饉
1858, コレラ大流行
1862, 麻疹大流行、江戸だけで24万人死亡
1866, 慶応大凶作、農民一揆106件、打ち壊し35件、村方騒動44件は、江戸時代最多
という状況で、島原の乱の原因にもなったし、将軍綱吉も亡くなったし、1733年に始まった両国の花火もこういった疫病で亡くなった人たちを弔う為に開催されることになったし、江戸幕府が崩壊したのも慶応大凶作が遠因だとも言われています。
現代の我々も、ついこの間まで、コロナで苦しみましたが、あのような、罹ったら死ぬかもしれない、治す薬も無い、という疫病が、飢饉が、数年毎に発生していたのです。
ちょっと、想像がつきませんね。
ですから、村山の人たちは大変だったと思います。水田が広がり、土壌も黒土で肥料は要らない、そういう土地だったら良かったですが、現実は、その1で既述の通りでした。
亡くなった村人も多かったでしょう。だから、疫病退散の天王様信仰に繋がったし、観音霊場を開くことになったんだと思います。
さて、南麓に戻り、十二所神社にも境内社に八坂神社があります。
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先を行きましょう、吉祥院橋で空堀川を渡り、狭山観音霊場二十ニ番吉祥院です。
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そして、いよいよ、中藤の山王様、日吉神社です。
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狭山池に集まった武州村山騒動の参加者2, 3万人は、まず、この中藤の山王様前に住んでいた名主文右衛門宅に討ち入りました。
表門の長屋門に火を点け、時の声を上げ、文右衛門も鉄砲矢砲を飛ばし対抗しますが多勢に無勢、最後は皆散り散りとなって逃げました。
物置、木部屋、油屋、穀蔵、金蔵、居宅、雪隠、長屋など、ありとあらゆるところを打ち壊し、戸、障子、雨戸など、取り外せるものは残らず取り外され、火へと投げ込まれました。。。
壮絶だったようです。それだけ、恨みつらみがあったんですね。
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先を行きましょう、狭山観音霊場二十一番、原山観音堂です。
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大曲で丘を越え北へ向かいますがその丘に狭山観音霊場二十番中藤百観音があります。
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丘を下って、まずは番太池がある谷戸を行きます。ここも嘗ての僅かばかりの田んぼが残ってます。
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戻って東へ。ここに、中藤八坂神社があります。
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中藤村では、文右衛門ともう1人の名主内野佐兵衛が打ち壊しを受けています。
内野佐兵衛は内中藤(入り、谷津)を管理エリアとしていましたから、この辺りでしょうか。
先を行きましょう、芋窪の天王様です。
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天王様という名前は、最近の道路拡張による小規模な移転からですが、地域の人々の信仰を良く表していると思います。
更に先に行きまして、狭山観音霊場十八番、奈良橋の雲性寺です。
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ご覧の通り、天王山雲性寺観音院です。後の山に天王宮がある故、天王山と号す、ということで、こちらがそのようですね。
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お寺ですが、神仏習合時代でしたから、これも、天王様信仰の痕跡ですね。
先を行きましょう、高木村の高木神社です。ここには、境内社に八坂神社があります。
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ここ高木神社では、江戸時代より、獅子舞が、毎年9月の祭礼で奉納されていました。疫病退散を祈願して始まったものです。暫く中断していましたが、最近、復活しています。
これも、痕跡ですね。
ここ高木村では、名主庄兵衛が打ち壊しを受けています。ここもどこなのか分らないんですが、高木村の鎮守があるこの辺りが中心地でしょうから、名主宅もここら辺ではないでしょうか。
先を行きましょう、高木村の集落から鷹の道を東に行って、狭山観音霊場十三番正福寺です。
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そしてここには、野口の八坂神社仮社もあります。
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この神社、いつの頃か府中街道沿いに遷座し東村山八坂神社となっています。
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府中街道を挟んでまいまいず井戸があったそうです。五ノ神社と同じシチュエーションですね。やはり、だからここに天王様を移転したんではないでしょうか。
帰りは毎度お馴染み多摩湖自転車歩行者道で帰ります。
如何でしたでしょうか。
厳しいですね。本当に厳しい。こんなにも厳しかったとは。
生きていることが奇跡のような世の中です。コロナが数年おきに発生していたなんて、想像もできません。
さて、ここを実走していると、須賀神社、八坂神社、八雲神社といったスサノオノミコトが多いということだけじゃなく、お地蔵さんと庚申塔も非常に多く感じます。
お地蔵さんは、色々な信仰がありますが、主なものは身代わり地蔵ですね。極楽浄土に往生できない人は必ず地獄に落ちる。地獄には、地獄、餓鬼、修羅、畜生などの六道があり、地獄に落ちた人は苦しみながら進んでいかなければならないんですが、その身代わりとなってその苦を受けてくれる菩薩様です。
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そして何と言ってもこのエリアの地蔵信仰の極めつけはこれですね。
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年代は1710〜1730年のものが多く、インフルエンザ大流行、享保の大飢饉と重なります。
そして庚申塔の青面金剛は、そもそも、疫病退散の仏様ですから。
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これもやはり、厳しい環境故なんだと思います。