大山道シリーズ番外編、巡見道
大山道シリーズ番外編、これまで、
と、来ました。
波多野道は、岡崎義実・真田与一親子が行き来した道、矢名薬師・金目観音・平塚八幡宮巡礼の道、そして、高句麗渡来人の大磯から秦野への移動の道でした。
梅沢道は、東海道大磯宿と小田原宿の間の宿梅沢への道であると同時に、中村党宗家中村荘司宗平、三男土屋三郎宗遠、四男二宮四郎友平、五男堺五郎頼平といった、中村党が行き来した道でした。波多野道と梅沢道は土屋で接続していますから、岡崎四郎義実・真田与一親子もここに加わります。岡崎四郎義実の妻は中村荘司宗平の娘桂御前、岡崎四郎義実の次男、つまり真田与一の弟は土屋三郎宗遠に養子に出て嫡男になっています。
そして前回の曽我道ですが、曽我太郎祐信は中村荘司宗平の娘婿で、となると曽我兄弟は孫ですから中村党一派で、曽我道と梅沢道は曽我丘陵を越える3つの道で繋がっていました。眺望が素晴らしかったですね。
◇■□◆
当初の計画では、小田原道か、足柄上下郡の甲州道に行こうと思ってましたが、グーグルストリートビューで確認すると、全工程舗装路のようでしたが、藪が濃そうな所もあって、落葉後に行くことにしました。
じゃあどこにするか。
正直、もう、一度も走ったことがない、という所を見つけるのは難しい。
その点は諦めよう。西が続いたので東にするか、ということで、今回は、打って変わって巡見道です。行き先が道の名ではなく、目的が名となっています。さてどこからどこに行く道なのか。
風土記の愛甲郡の記述では、
"一は巡見道国中巡見使通行の道なり、と云、大住郡石田村より愛甲村に入、下荻野村に至て甲州道に合し、田代村に至て又岐路となり、三增村にて津久井道に合す道程凡五里道幅二間"
読み解くと、冒頭の、"大住郡石田より愛甲郡に入り" 部分は、ちょうど、小田急の愛甲石田駅は、愛甲郡と大住郡の郡境にありますから、この辺りが起点だろうと言うことになります。
次、"下荻野村に至りて甲州道に合し" というのも、津久井通り、八王子通り、府中通りの各大山道が接続する、荻野新宿の五叉路のことで間違い無いでしょう。
以降は甲州道(津久井通り大山道)を田代まで、ここで分岐し直接三増に行くわけですから、三増合戦道を行くんだと思います。
問題は荻野新宿までの道筋です。迅速測図を眺めてみると、候補は三つありそうです。東から行きますと、
愛甲村、石田村、矢倉沢往還が乗る台地の東端、大厳寺、円光寺の東を掠めて西に回り込み、長福寺の辺りで北に折れ一つ北の大地に上がるルート
矢倉沢往還のセブンイレブン伊勢原石田店の辺りを起点にアマダ敷地内を通り前述の長福寺に至るルート
JA湘南成瀬支店を起点に高森団地の東を抜けアマダの西端を抜けて長福寺に至るルート
この内のどれが巡見道の道筋か。
これを推理する為には、これら候補が通過する村々の風土記の記述を確認します。
石田村
脇往來二條係る、一は大山道幅二間、一は平塚宿道幅一丈なり
→巡見道の記述無し高森村
村内に矢倉沢道係れり幅二間、又藤太道と唱える小道あり幅八尺
→同上愛甲村
村の巽に矢倉沢道幅二間下同じ係れり、又巡検道西寄りを通ず
ということですからどうやら大厳寺、円光寺の東を掠めるルートは無さそうです。また、アマダ敷地を行くルートは、どうせ走れないので、今回はJA湘南成瀬支店を起点にしたルートということにしておきます。
その先、長福寺から玉川を渡り、台地に乗った後は、迅速測図を見ると、
ぼうさいの丘公園の西、ヨークフーズ南毛利店、ケーキハウス幸せの丘、南毛利公民館辺りを北北西に進んでいって駒ケ原・古松台交差点で八王子通り大山道に接続する片実線片点線の村道ルートと、
ぼうさいの丘公園の西端に沿って北北東に進み、恩名、林、及川と進む一本実線荷車道ルート
が、考えられますが、風土記の各村の街道の記述を見ると、
船子村
街道記述無し長谷村
南北に亘り巡検道係る幅二間温水村
大山道村の中程を貫く幅九尺又八王子道巡検道とも云う西南に係れり幅二間愛名村
艮(北東)より坤(南西)に亘りて大山道通ず幅九尺
と、言うことで、舟子村の記述からやはり東(主に神奈川県道603号線)は無い、愛名村の記述から西も無い(こちらは八王子通り大山道がズドンと通ってます。), 長谷村の記述から、長福寺から柳橋で玉川を渡りぼうさいの丘公園方向に向かうんだろうと思われますが、温水村の記述では、上記2つの内のどちらか分かりませんね。
しかし、グーグルマップを隈なく見てみると、2の方に巡見道の碑がありましたから、2を正解としておきます。
愛甲石田まで輪行、矢倉沢往還を出来る限り旧道で、と思いますがここら辺は無理ですね。現行R246で起点まで。交通量も多いしトラックも多いし、嫌な道ですね。
ということで、何の変哲も無い住宅街をやり過ごし、アマダを過ぎ、東名を越え、宝積寺がある集落に到着です。
愛甲小から玉川に架る柳橋に向かう曲がり角に、大山を背景とした祠がありました。
この祠は何の祠か。迅速測図を見れば分かるかもしれません。
玉川はご覧の通り流路変更されていますが、旧玉川を西に少し行くと、愛甲三郎季隆の居館跡があります。
だからなんですね、迅速測図時点(1880~1886年)でここに集落があったのは。昔からの集落(愛甲三郎季隆~1213年)だったということです。
また、ということは、ここが、日向薬師道で訪問した縁切り橋の話の中で、北条政子に焼かれてしまった居館ということですね。
巡見道に戻りまして、(新)玉川を渡って台地に上り、ぼうさいの丘公園の西南端は、駒ケ原・古松台で八王子通り大山道に接続する村道との追分で、ここに道祖神がありました。
先を行きましょう、ぼうさいの丘公園の西脇を抜けて、、、
専念寺の集落です。
この専念寺ですが、興味深い伝承があります。
ここの御本尊は阿弥陀様ですが、この阿弥陀様は、聖徳太子が開いた一乗寺にあったんですが、一乗寺が火災に遭った時、火達磨になった仏像が飛んで来て池に落ち、池の水がお湯となって、それが、温水という地名由来となった、という内容です。
専念寺は、池に落ちた阿弥陀様を里人が草堂を設け安置したのが始まりとのことです。
こんな所に聖徳太子!
ん?!何か引っ掛かるな、、、と思い過去記事を見たらやはりそうでした。ここから程近い妻田薬師の御本尊は聖徳太子によるものという伝承がありましたよ。
さて、恩曽川を渡り再び台地に上りまして、
林村です。林村の入口とでも言いましょうか、上記迅速測図を見て頂くと分かりやすいと思いますが、林村の手前、台地から谷に下る直前に南西から村道が合流してますね。ここに、糟屋通りの道標があります。
その直ぐ先、大坂を下りた後、東から一本実線の荷車道が来て西に抜けてますが、ここにも、糟屋道道標があります。
巡見道、ここら辺りでは、糟屋道、荻野往来と呼ばれていたそうで、風土記の林村の街道記述では荻野道と書かれていました。
"荻野道南北に貫く幅二間"
逆にこの糟屋道道標が、巡見道の証拠、ということになります。
その先、一度訪問してますが、ここに、林神社があります。
聖徳太子といい、武内宿禰といい、ここら辺は古いですね。矢倉沢往還の影響でしょうか。
この後、台地を下りて小鮎川を渡り、再び台地に上がって及川の集落です。
ここも古い。
まず、及川八幡神社です。ナント!!!, 弘法大師空海の建立という伝承です。
この及川八幡神社とセットで語らなければならないのが西光寺です。
及川八幡神社の別当寺で、弘法大師が開基、本尊の阿弥陀如来は、弘法大師が彫刻したものと言われています。
及川を抜けると、八王子通り大山道に合流です。ここにやはり糟屋道道標があります。
八王子通り大山道を北上し、荻野新宿の五叉路に至り、その後は何度も走った津久井通り大山道を田代まで行きます。以下、写真集です。
さて、田代に到着しました。津久井通り大山道はこの先馬渡橋で中津川を渡り半原へと行きますが、巡見道は関場の坂を上って、が、志田峠には行かず、三増に向かいます。
上り切るとこの甲州道庚申塔道標がありました。
撮影はしなかったんですが、この道標の手前にお不動さんがありました。
この辺りは1569年の信玄小田原攻め・三増合戦の史跡が多いですね。
程無く、ゴールの津久井道です。
が、、、
巡見道自体は辿ることが出来たと思っていますが、実際は、何を、"巡見" したんでしょうか。
私がいつもお世話になっている、"地誌のはざまに" という素晴らしいサイトによると、巡見使には、国々御料所村々巡見と諸国巡見使の2つがあり、前者はその名の通り、幕府御料地を巡見する巡見使で、後者は御料地に限らず、ということのようです。
が、"道しるべを追って厚木の街道" によれば、天保9年(1838)の巡見の時に使った道で、目的は、天保の大飢饉の被害状況等の巡見だったとのことです。
ここ相模国、愛甲郡、津久井県では、天保の大飢饉の50年前、天明の大飢饉で、土平治騒動が起きています。
土平治騒動は、日連村勝頼、青山、川和、鳥屋、久保沢、田代、半原で発生、造り酒屋に対する打毀しでした。一万人以上も参加したと言われ、国内最大だったということです。
風土記の、愛甲郡に記述された巡見道、何を巡検したか。
天保の大飢饉の時、天明の大飢饉で土平治騒動があった愛甲郡、津久井県の状況、特に、また、騒動が起きないか、を、巡検したのだと思われます。
ということは、このまま津久井道(信玄道)を進み、日連村勝頼、青山、川和、鳥屋、久保沢、田代、半原にも行ったはずです。
ということで、先を行きましょう。
津久井道を三増、三増峠、根小屋、長竹と行って、青山村です。
そして、その三ケ木村です。
そして、又野から中野村です。
そして、中野から太井、荒川、中澤、都井沢、谷原と行って、川尻です。
如何でしたでしょうか。
通常、古道の名前は行き先です。大山に向かうから大山道なんです。
しかし今回は、行き先ではなく目的が道の名となっている巡検道でした。
では何を巡検したか、天保の大飢饉に際し、天明の大飢饉のような騒動が起きないか、その、巡検だったんです。
天明も天保も全国的な飢饉でしたが、愛甲郡、津久井県は特に酷かったようです。
その背景ですが、基本的にどこも自給自足だったんですが、江戸時代も後半になると、元々、耕作に適していない山間の愛甲郡、津久井県は、自給自足を止め、商業で生活するようになります。だから、いざ、飢饉になると、食料を買えなくなってしまい、飢饉の度合いが酷くなっていったのです。
振り返って現代の我が国はどうでしょうか。
工業製品を作って、輸出し、そのお金で海外から食料を買う方が、経済効率が良い、ということで、食料自給率は50%を下回ってしまっています。
天候不順や、紛争等によって、食料の輸入が止まると、途端に、天明、天保のような状況になってしまうんじゃないでしょうか。
歴史に学ぶ必要があると思いました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?