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笹井観音堂の配下修験寺院の痕跡、小谷田、高倉、入間川、奥富、柏原、広瀬、芦苅場、野田

前回、同様なテーマで、三ヶ島、宮寺、今井、岩蔵、直竹、成木、北小曽木をexploreしました。

痕跡は残っていました。残ってはいましたが、何と言いますか、数千年、数万年と、八百万の神で生きてきた我々日本人が、突如、一神教になろうとした、その痕跡が逆に浮かび上がってきた感じがしています。

今回もそうでしょうか。

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東飯能まで輪行しようと思ってたんですが、拝島で25分の待ち。だったらと、西国立で降り、大山道で狭山丘陵まで北上、東大和市立郷土博物館がある鎌倉道で丘陵に上り(10%勾配もシッティングで!!!), 多摩湖、狭山湖、三ヶ島と行って、小谷田の不動堂です。

不動堂別当笹井観音堂配下修験寺院威徳山明王寺

風土記によれば、

"本尊不動は立像にて、長四尺許、智證大師の作なり、相傳ふ金子十郎家忠の守本尊にて、家忠戦場にのぞみて敵に圍れし時、此不動を念じければ、敵自ら裏崩して圍解け、危き所を免かれぬ、去れば家忠益信仰の思をなし、武運擁護の佛とす、今に毎年二月廿八日は参詣の人殊に群がれりと云、別當威徳山明王寺は本山修験、高麗郡篠井村観音堂の配下なり。"

ということで、笹井観音堂配下修験寺院明王寺が管理していました。明王寺そのものは無くなっていますが、笹井観音堂配下修験寺院の痕跡です。

不動堂そのものに目を向けますと、本尊の不動は、保元の乱で頼朝の父源義朝に従い、その後は頼朝に仕え、源平合戦で大活躍した村山党金子氏金子十郎家忠の守本尊であること、そしてその仏像は、第五代天台座主で、入唐八家の一人、修験の父、智証大師円珍の作ということですから、大変、歴史的価値があります。

しかし、実走してみると、豊岡街道から寺を案内する看板も無く、境内も、整ってはいましたがうら寂しかったです。

先を行きます。霞川の河岸段丘上の村道を高倉に向かい、、、

今尚当時のまま、土道が残る村道

、、、高倉の氷川神社です。

高倉氷川神社

埼玉の神社に寄りますと、明和五年1768本殿再建時の棟札には、"高峯山寶行寺良真代" の銘があり、その宝行寺は、風土記で、"高峯山と号す、修験にて篠井村観音堂の配下" とあるので、こちらも、笹井観音堂配下修験寺院の痕跡ということになります。現宮司淵泉家は宝行寺の山伏でした。一神教への大変革の痕跡でもあります。

また、社記に、"当社は、往古武蔵国足立郡高鼻村の氷川神社遥拝所であったが、応仁四年霞川の洪水により、社地水没、天文二年現在地を卜して社殿を再建する" とありますから、応仁四年1470には既にあった古社ということになります。

しかしどうでしょう、霞川の洪水に遭うということは、今は河岸段丘上にありますが当時は川沿いの低地にあったということで、そこから大宮の氷川神社が遥拝出来たのでしょうか。

先を行きます。高倉から黒須、入間川とR16の旧道を行きます。今は見る影も無い入間川宿に至りますとここに福徳院があります。

福徳院

縁起によれば、この御堂はH18建て替えのものですが、それ以前の御堂は、入間郡柏原村の小山坊が所有していたもので、明治30年に徳林寺に寄進されたものです。その小山坊ですが、風土記によれば、"薬王山小山寺と号す、本山修験篠井村観音堂配下なり本尊不動" とありますから、ここも、笹井観音堂配下修験寺院の痕跡ということになります。

先を行きましょう、入間川街道を進み、奥富に入りまして、八雲神社です。

八雲神社

埼玉の神社によれば、天文元年1532開山笹井観音堂配下修験寺院金峯山東林寺が別当でした。よってこちらも笹井観音堂配下修験寺院の痕跡と言うことになります。尚、山伏は明治の廃仏毀釈後、立川を名乗り復飾し神主となりましたが、明治の中頃に離職しています。

明治四二年1909, 字坂上の伊勢宮を合祀、この伊勢宮も東林寺が別当でした。

"東林寺、金峰山と号す本山修験篠井村観音堂の配下なり本尊不動を安す"

先を行きます、ここから折り返しです。赤間川通りを行きます。ここは入間川の氾濫原で、迅速測図の時代から続く田園地帯です。ちょうど、稲が頭を垂れている時期、良い風景でした。

田園風景越しの大岳山(ちょっと露出がおかしいですね、眩し過ぎます。)

狭山大橋で入間川を渡り、柏原に入ります。ここに、白鬚神社があります。

柏原白鬚神社

風土記によれば、"村の鎮守なり、別當は鎮護山宮本院社地に住居せり、本山修験、篠井村観音院配下なり、本尊不動を安ず・・・" ですから、ここも、笹井観音堂配下修験寺院の痕跡と言うことになります。現在も、祀職は、宮本院山伏宮本家です。しかもこの敷地にお住まいだったんですね。

また、

"天王社、宮本院持、これも村の鎮守なり・・・"
"神明社、稲荷社、以上二社宮本院の持"

ともありまして、村内にあった天王社は、境内社の神明と愛宕を合わせ八坂神社とし、

八坂神社

稲荷は村内他の稲荷と合わせ、境内に稲荷神社を建立しています。

稲荷神社

更に風土記には、

"高根社、石の祠に安ず、祭神は木花開耶姫命なり、小山坊の持なり"

とあって、村内の日枝、境内にあった富士嶽社と合わせて日枝浅間社を建立しています。

日枝浅間神社

小山坊は先程の福徳院に登場しましたね。

ということでここ柏原白鬚神社には、柏原村の全ての笹井観音堂配下修験寺院の痕跡が集まっているということになります。

先を行きます。狭山中央通りとの交差点、奥州道交差点には、影隠地蔵があります。

影隠地蔵

この石造の地蔵は、明治7年1874に、廃仏毀釈で廃された木造のものの代わりに建立されたと見られています。ある意味これも、一神教への大変革の痕跡です。

その木造地蔵ですが、風土記によれば、

"地蔵は長さ二尺余りの木像なり、土人これを影隠し地蔵という。それ故は往古村の艮(うしとら: 北東)にあたり、柏原村界霞ヶ関の辺り、古街道の傍らにありし時、木曽義仲の息清水冠者鎌倉より逃げ去りこの地に至り追う者迫り来たりければこの地蔵の後背に影を隠し危急を逃れしと。それより影隠し地蔵の称あり。当院(正覚院)の境内に移せしは近世のことなり。"

とあって、正覚院は、"往古は正覚坊と云う、本山修験篠井村観音堂の配下なり" ですから、これも、笹井観音堂配下修験寺院の痕跡ということになります。

また、元々は広瀬村と柏原の村界、古道の傍らにあったということですから、ほぼ今の位置ではないでしょうか。交差点名にも表れていますが、ここを北西に行く道は高萩に至り奥州に向かう奥州道であり、この坂は信濃坂で、高萩から西に採れば、清水冠者の故郷、信濃に行く古道です。

先を行きます。今回訪問しませんでしたが、広瀬には、式内社広瀬神社があり、明治四〇年1907に、村内字坂下の愛宕神社と字下郷の神明神社を合祀していますが、その愛宕神社と神明神社は、風土記によれば、"神明社、正覺院持、下(愛宕社)同じ。愛宕社" ですから、先程登場した正覚院持ちということで、笹井観音堂配下修験寺院の痕跡ということになります。

その愛宕社ですが、今も元の位置に残っています。

字坂下愛宕社。坂下の坂は襷坂のことで、広瀬浅間神社の東西両サイドの坂のことを言います。ここには愛宕社が残っています。

またここには、嘗て正覚院にあった庚申塔があります。

庚申塔

正覚院の山号は愛宕山で、管理する神社と修験寺院は同じ場所にあることが多く、その神社の名を山号にすることも少なくないことから、正覚院は正にこの場所に在ったのではないかとするWeb記事もありました。私もそのように思います。と、すると、この庚申塔は移動していないことになります。

さぁ、ここから襷坂を上って芦苅場に向かいます。ここに、赤城神社があります。

赤城神社

風土記によれば、

"赤城神社、赤城社村の鎮守なり、もとは本山修験、福泉寺の持なりしが、彼寺廃せしのちは、長徳寺の持となれり。"

"福泉寺、赤城山と號す、本山修驗、篠井觀音堂配下、今は廢寺となれり"

"長徳寺、彌勒山と號す、本山修驗、篠井觀音堂配下にして、じび村を草創せしより、今永福寺の本尊彌勒佛は此寺に傳来せしが、永昌寺を建立して本尊とせしかば、山號をも同すといへり、今不動を本尊として安置せり、三島社金毘羅社。社後に橿一株、かこひ一丈三尺許なるあり、地蔵堂。地蔵は木の立像長一尺、貞澄作と云。"

"永昌寺、彌勒山と號す、曹洞宗 飯能村能仁寺末、本尊彌勒を安ず、開山は能仁寺七世大庵文廣寛永十二年八月廿八日寂す、開基良快同十四年七月十九日歿す、良快は長徳寺の先代にて、則其寺除地の内へこの一寺を建立せしと云ふ"

ですから、赤城神社と永昌寺は笹井観音堂配下修験寺院の痕跡ということになります。

永昌寺

先を行きましょう、野田に向かいます。野田には芦苅場で登場した長徳寺とは別の長徳寺があり、ここの薬師堂は、笹井観音堂配下修験寺院瑠璃山吉祥院の廃寺に伴い移設されたものです。

長徳寺薬師堂、嘗て、笹井観音堂配下修験寺院瑠璃山吉祥院にあった。

その吉祥院の持ちだった諏訪神社はその敷地が住宅になっていました。どこかに遷座されたものと思われます。

同じく吉祥院の持ちだったのが、野田白髭神社です。

野田白髭神社、"村の鎮守なり、例祭三月十五日九月十九日なり、本山修験寶正寺の持"
野田白髭神社の境内社、この中に諏訪稲荷神社があります。恐らくこれが、敷地が住宅となった諏訪神社と思われます。"本山修験吉祥院の持ち"

今日も暑さが大変厳しい。まだ13時過ぎですが、東飯能から輪行で帰ることにします。


如何でしたでしょうか。

明治の廃仏毀釈で壊滅した修験ですが、今回訪問したエリアでは、神社となって継続など、何らかの形で痕跡は残っていました。逆に、跡形も無くなったケースはありませんでした。前回の、三ヶ島、宮寺、今井、岩蔵、直竹、成木、北小曽木では、幾つかあったのですが。

前回も思ったんですが、例えば冒頭の不動堂、金子十郎家忠ですから鎌倉初期です。その頃から既に明王寺が別当だったのでしょうか。あるいは後年、それまでの別当に変わり、別当となったのでしょうか。

この不動堂のような、地区を代表する歴史ある寺社の別当を、修験寺院が務めているケースが多いように思ったのです。

その創建や開創に携わったのなら納得出来ますが、既に有力寺社だった場合、それに取って代わらなければならないわけです。それ程、当時は、力があったということでしょうか。

次回は高麗川、中藤川、入間川沿いをexploreしたいと思っています。

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