雨の音楽家【短いお話】
雨の音楽家
「今日は雨か…」
窓の外を見ながら、アキトは呟く。心なしか、テーブルを拭く手が軽い。
アキトが暮らす小さな町には、雨が降ると必ず現れる音楽家がいた。彼は雨の日に広場に立つと、フードを深く被り、顔を隠しながら音楽を奏でた。
奏でるといっても、彼の手には楽器などない。
雨粒が地面や屋根に落ちる音、風に揺れる木々の囁き、そして遠くで鳴る雷の音…。不思議なことに、彼が指揮者のように手を振ると、周りを取り囲む音は美しい、唯一無二のメロディになる。
どこか懐かしい彼の演奏はこの街の人々を魅了していた。アキトも魅了された一人だった。
幼い頃から音に敏感だったアキトは、町のカフェで働きながら、いつか自分も音楽で成功したいという思いを抱いていた。しかし、日々の忙しさと、何よりも自分には才能がないという現実に押しつぶされ、その夢を諦めかけていた。
雨の日、アキトは決まって音楽家の演奏を聴きに広場へ向かった。音楽家は一言も発することはなく、ただその音楽を通じて何かを伝えようとしているようだった。アキトは彼の演奏を聴くたびに、心の中に湧き上がる感情や記憶が解き放たれるのを感じた。
いつものように広場に足を運んだアキトは、演奏に耳を傾けた途端、違和感を覚えた。うまく言えないが、いつもより音のつながりがぎこちない。
演奏を終えると、音楽家はフードを深く被ったまま静かに去ろうとした。アキトは思わずその背中に声をかけた。
「何か、あったんですか?」
音楽家は少し驚いたようにアキトを見つめる。
「あ、いや、いつもと少し感じが違ったので…」
アキトは少し緊張しながら言った。
「この場所はもう終わりだ」
音楽家は短く答えると、立ち去ろうとした。終わり…もう演奏を聞くことはできないのだろうか。
「なぜ、雨の日にだけ演奏をするんですか?」
音楽家は立ち止まり、少しだけフードを持ち上げた。アキトは彼の顔を見ようとしたが、雨が彼の顔に落ち、輪郭はぼんやりとしか見えなかった。
「雨の日は、過去の音が蘇るからだよ」
独り言のように答えると、音楽家はそのまま消えるように静かに歩き去った。アキトはその言葉の意味を考えながら家へと帰った。
数日後、再び雨が降った。アキトは広場に急いだが、そこに音楽家の姿はなかった。少し待ってみたが、音楽家が来る気配はない。
音楽家は「この場所はもう終わりだ」と言っていた。ということは、彼は今違う場所で演奏をしているのだろうか。
夕方になり、雨がさらに激しくなってきた。アキトはふと、町の外れにある古びた時計塔を思い出した。過去の音、という言葉と古びた時計塔はしっくりくるような気がした。
時計塔にたどり着くと、そこには音楽家が立っていた。彼は静かに雨音を聴き、かすかに手を動かしていた。アキトはその姿を見て、無言で近づいていった。
「あなたの音楽は、過去の音を奏でているんですね」
音楽家は静かに頷いた。
「雨の日には、昔の記憶が音となって戻ってくる。私はそれを音楽として紡いでいるだけだ」
「どうして晴れの日には演奏しないんですか?」
音楽家は空を見上げた。
「晴れの日には、過去の音は聞こえないからだ。私にとっての音楽は、過去と向き合うための手段なんだ」
アキトはしばらくの間、言葉を失った。なんとなく、音楽家の言葉は彼自身が抱えている過去の傷や未練を思い起こさせた。
「でも、過去の音を奏で続けることは、辛くないですか?」
音楽家は微笑んだように見えた。
「辛いこともある。でも、過去が今の私を形作っている。だから、その音を忘れたくはないんだ」
彼はそういうと、ふいにアキトの方を見て言った。
「君も音を感じる力を持っている。それは大切にしたほうがいい」
アキトはハッとした。彼はこれまで、自分の才能を否定していたが、音楽家の言葉でその考えが揺らいだ。アキトは俯きながら尋ねた。
「あなたのように、人を魅了する演奏ができるでしょうか?」
「私のようになることはできない。君の音を紡いでいくんだ。君の音は君にしか奏でることができないんだよ」
そう言った音楽家の声は驚くほど優しかった。
「僕の、音…」
アキトが顔を上げると、まるで幻のように音楽家の姿は消えていた。
雨音だけが、静かにアキトを包んでいた。
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