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ノラ・ヴェラキッカに向ける感情(『ヴェラキッカ』の感想)


 ミュージカル『ヴェラキッカ』が2月6日に大千穐楽を迎えたので、今は一つの区切りとしてこの文章を打っている。

 『ヴェラキッカ』を観劇した。この気持ちをどう伝えていいのか分からない。ただ、今の私にとっては本当に必要な物語だった。それだけを誰かに伝えたくて筆をとっている。なので、この記事は真っ当な考察でもないし、私はこの物語をこう受け止めたよ、私の感受性ではこの要素が引っかかったよという魂の悲鳴でしかない。ここでは主に①ノラ自身の意志について、②ノラを好きになった理由、③「死」を介した他者の「所有」について語っている。合わないなと思ったら適宜ブラウザバックしてほしい。

 まず、『ヴェラキッカ』を観劇して、初めに抱いた感想は「悔しい」だった。舞台をはじめとするフィクションに親しむ中で、私たちは日頃自覚していなかった内なる願望に気づかされることがあると思う。それは一人として同じ人間がいないように人それぞれ違っていて、そこで抱いた感情はその人だけのものだ。この作品のこういうところが好き、と言っても人それぞれ歩んできた人生や経験がある訳だから、同じ好きでも「好き」の内訳は絶対に違う。
『ヴェラキッカ』は私の心のすごく柔らかい部分にまで踏み込んできた。自分が心から求めていた作品に出会えた時の幸せ、あるいは「出会ってしまった」絶望感といってもいいかもしれない。今後この作品を超えるものに私は出会えないかもしれない。自分の感受性の限界が示されたような焦燥感に似た気持ちを抱いた。今の私が心の奥底で観たいと思っていた景色は『ヴェラキッカ』そのものだった。

①ノラ自身の意志について
 ノラ・ヴェラキッカをはじめてみた時、おそらくこの役は物語の中でファムファタルとして設定されているのだと直感した。自らの内面を語ることをゆるされない偶像としての存在。それだと思った。確かにオリジナルのノラはシオンに対して「愛されてみたい」とその願望を口にした。けれど、それはあくまでシオンの回想によるものだ。地下牢で過ごしたオリジナルのノラにシオンはああ言ってたけど、実際のところはどうなの?と聞くことはできない。ヴェラキッカ家の他の登場人物のように、ノラは自らの内面を語る言葉を持たない。共同幻想を生きるノラは、「寂しいんだ」「愛されたい」と強く願うけれど、そこには「ノラにこうあってほしい」と願った人たちの気持ちが流れ込んでいる部分は否めない。共同幻想のノラが自らの想いを語る時、そこにノラの意志はどれだけ反映されているのだろうか。「きっとノラならこういう風に言う(言ってほしい)」そう思ってきた人々によって、ノラの意思はつくられているのだと思う。もしかしたら、シオンによる共同幻想が綻び始めたことで、共同幻想のノラが何かしらの意思を持ち始めた可能性もあるかもしれない。けれど、本当のところは分からない。ノラは魅力的な存在だ。何時だってその人がほしい言葉をくれる。私の想うあなたでいてくれる。愛の名のもとにすべてをゆるしてくれる。だから怖い。

②ノラを好きになった理由
 そもそも私がノラを好きになったのは「限りなく死に近い位置にいるから」というのが大きいかもしれない。少し話は変わるが、皆さんは廃墟はお好きだろうか。私は実際現場に行くことはないのだけれど廃墟の写真集をみたり、稀に廃墟探索サイトを巡って朽ちゆく建物を眺めるのが好きだ。何なら無尽蔵に生えている植物の生命力と倒壊しかけの建物が醸し出す死の雰囲気、その生死が行き交うような風景を眺めることも好きだ。廃墟というのは「建物としての死」一度目の死を経て、「人々に忘れ去られる死」つまり二度目の死を迎えている真っ最中の姿だと思う。その思想はノラ・ヴェラキッカという存在にそのまま投影できる。ノラ・ヴェラキッカを眺めている時に抱く感情は私が廃墟を想う気持ちにかなり近い。

③「死」を介した他者の「所有」について
 物騒な話だけれど、殺人には他者を「所有」する暴力的な手段としての一面があると思う。無論、現実ではまずあってはならないことだけれど、フィクションの中で「殺人」という描写に触れる時、私はそこに他者に奪われたくない、自分だけの箱庭に閉じ込めたい……そういった感情を汲み取ることが多い(虚構を生きている時の私はそのような動機で行われる殺人表現を好んでいる。現実にはまずあってはならないことだけれど)
 私の中の「愛」の印象はアガペー的なものが強いので(規範としてそうあるべきという気持ちが強い)他者を「所有」する動機で描かれる「殺人」は「愛」とは遠くかけ離れたものだと思っていた。ただ、後半ノラ・ヴェラキッカはクレイとマギーが自らを殺しに来た際に「そうか、それが君たちの愛か!」と狂喜するし(ちなみにこの場面でノラ様が目を見開いてこの上なく嬉しそうにしている表情がもう鳥肌立つくらい好き。白目にスポットライトが当たってすごく綺麗)ウィンターに刺殺された時も、「ウィンター……それが君の愛なんだね」と言って息絶える。他者を「所有」しようとする歪な行動をノラは「愛」と呼ぶ。
 そこで死んだままでいれば、その「愛」とやらは成就したのだけれど、ノラは生き返ってしまった。生き返ってしまったことで、逆説的にノラは「死」によって「所有」できない存在であることが示された。ノラ・ヴェラキッカは誰のものにもならない。私は失恋に近い感情を抱いたと共に、それでこそノラ・ヴェラキッカだと狂喜乱舞した。私が想うノラ・ヴェラキッカは誰のものにもなってほしくないので……ここまで書けば概ね察していただけると思うけれど、私が登場人物の中でノラに「愛」を向ける動機として本質的な部分で共感してたのはクレイ・ヴェラキッカ(あるいはウィンター・ヴェラキッカ?)だった。「愛しているから殺したい」という気持ちは正直感覚としては分かる。でも殺しちゃうと好きな人にはもう会えないんだよ~~!?と泣きそうな気持ちになりながらクレイを見ていた(まあ、オリジナルのノラはもう死んでるんだけど)元々、私は「生」よりかは「死」に惹かれる側の人間で、ただそれが万人に受け入れられない感覚というのもよく理解しているので、普段はあまり表に出さないのだけれど。『ヴェラキッカ』に触れたことでひた隠しにしてきた感情を引きずり出されてしまったような気がした。
 私は他者に好意を示す時に、極力きれいな感情だけを渡したいのだけれど、それは自分の感情の発露によって相手を傷つけたくないという動機に基づいている。ただ、他者に向ける感情はそんな簡単に綺麗な包装紙にくるんでしまえるようなものじゃないよ。って見透かされてしまったような気がして本当に「悔しい」と思う。私はノラ・ヴェラキッカに向けるこの感情を「愛」と呼びたくはない。

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