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短歌の朗読〈音と型〉声優・石野竜三さんに聞く

語り手:石野竜三さん  聞き手:淀美 佑子

 年頭に宮中で行われる歌会始では、投稿短歌を独特の読み上げで聞くことが出来る。和歌などの詩歌を読み上げることを「披講(ひこう)」といい、それを読み上げる人を読師(どくじ)とか講師(こうじ)という。現代の感覚からすると、ずいぶんとゆっくり間のびしたような節をつけて読み上げられる。
 なぜあのような読み方をするのか。それについて、考えたことがあるだろうか。
 これについての先行研究などを紐解いたことはないが、先日とある人物からとてもおもしろい考察をうかがい、歌人仲間に話すと興味を持ってくれる方が多かったので、まとめて記しておきたいと思った。
 お話しをうかがったのは、声優や舞台人として活躍し、講師のお仕事もされている石野竜三さんだ。「語り芝居プロジェクト」という企画で一人語りの公演をされているので、先日、短歌の東の聖地こと文芸・演劇サロン銀狐をご紹介し、今後イベント開催の予定を控えている。

 そんな石野さんと、酒を酌み交わしながら朗読に対するこだわりなどをうかがう中でこんな話が出た。
 石野さんの語り出しは、すごくすごくゆっくりなんだけど、それには理由があるそうだ。 
  
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 人は5種類の情報の入り口(五感)を持っていながらその割合に大きく偏りがある事が知られています。突出しているのが視覚で、情報の取得で9割ほど、伝わりやすさや伝えられた人の感動の度合いも視覚情報が圧倒的で7割ほどと言われています。言い換えるなら、人と言う生き物は色々な意味で視覚に大きく左右されて生きていると言う事になります。 そんな訳で、人は音で情報を伝えられた時に、無意識に視覚情報に変換して理解しようとする傾向があるのです。耳で聞く→意味を理解する→映像・画像・立体イメージに変換する、と言う段取りを経て自分の中に情報の再構築をします。 現代を生きる私達は、様々な映像・画像ソースに触れているので、慣れるのにそれほど時間を要しないかも知れませんが(それでも時間はかかるので私は出だしはゆっくり語り出します)、写真や動画などのなかった時代の人達にとってはそれなりに大変な作業だったのではなかろうかと私は考えています。 そこでより多くの人に伝わるように読み上げ方がゆったりとしたものになったのではなかろうかと思うのです。読み方に特別な情感を込める訳ではないので純粋に時間の問題なのかなと考えた次第です。
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 文芸を視覚で〈読む〉ことと〈聞く〉ことの大きな違いは、音にするとそれは物理現象だから時間制限ができる。目で読んで咀嚼するときと聞くときとでは、時間の流れが大きく違うのだ。人が耳で聞いた言葉から景や意味を思い浮かべるとき、言わば〈解凍作業〉が行われる。和歌の披講がゆったりした節なのも、歌を味わう上で必要な時間をつくるためだったのかもしれないという石野さんの推察に、わたしはとても納得がいった。

 さらに、短歌は五七五七七という型を持つ詩型だが、日本人がなぜ型を好むのかという話もおもしろかった。
人間は、情報の入り口(インプット)には五感を持っている。だがしかし、何かを人に伝えようとする表現手段、つまり出力(アウトプット)には、筋肉の収縮ただひとつしかないというのだ。言われてみれば、表情をつくる、歌う、踊る、しゃべる、書くことですら、筋肉の収縮だ。そしてその〈筋肉の収縮〉の活用方法が、農耕民族と狩猟民族で異なってくるという。狩猟民族にとって、子どもは負債であり、一刻も早くひとりだちして欲しいものだから、狩りの工夫を身につけさせる。農耕民族にとって、子どもは労働力であり(集団で収益を得るため)、自然に馴染んだ生活習慣を身につけさせる。自然環境や集団という人の努力で変えられない場の縛りを受け入れて折り合いをつけるのに、〈型〉を用いるのが日本的なあり方なのだろうという。型に凝縮すること。制限された中に無限の広がりを表現しようとするのが、日本の感性であり、能や狂言の舞台芸術、武道、茶道、俳句や短歌も然りというわけだ。
 以上は、石野さんにうかがった話をわたしなりの理解でまとめたものなのだが、これは歌人として、短歌と向き合うときに、音や型という根幹を見つめ直すきっかけになった。

 さて、プロとして長年「語り」という、言葉を声で伝える仕事をされてきた石野竜三さんの、深い考察が体現されるイベントがある。8月文芸・演劇サロン銀狐にて、江戸川乱歩の朗読を聞くことができる。納涼にもちょうど良さそうだ。

「江戸川乱歩を語る」
銀狐×石野竜三🌟語り芝居プロジェクト・コラボ企画
8/11・18・25(日) 14:00〜
https://ryuz.moo.jp/katari.html

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