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圧縮された光の中で

私のような人間には、過ごす時間や空間の一瞬一瞬がすべて濃く、短い時間でも刺激が多いと幾倍も歳を取る感覚がある。外見は若いと言われることばかりだが、さすがに最近は人並みではないか。

学習能力の高さもこれに由来している。
五感と処理経路がそうなっている。

高度高速の処理を求める世の中では、私は消費され尽くしてしまう。私は学歴を使いあぐねた。

学習が自分を消耗させることには年々深く自覚を伴うようになった。どんな仕事も一月足らずで覚えてしまう。見たもの聞いたものは再現できる。でも、だから何だろう。放っておいても、私は絶え間なく新しい何かを見いだしている。それに対価を求めねばよいのだ。対価を求めれば、自然私の五感と処理を「売りに出す」こととなり、おそらく会社勤めではその消耗の「割に合わない」。

私は学習を捨てようと思う。断捨離的な意味で。
感覚的に言えば、これまでの10割中、8割は圧縮してカラカラに干からびさせればよい。私の学びは、以降体性感覚メインのものにしたい。

前々から必要性を実感していたが、ただ存在していこうと思う。私によく似た子を授かり、その子の笑顔と安らぎの表情をしるべに、至上の時間を持てたおかげでようやく価値観の変容に近づいてきたのだろう。

学歴はもう供物にしない。
すべらかな平坦さの中に生きていきたい。