掌編小説 路地裏の庭師
オフィス街にほど近いマンションに住んでいる。ベランダからは立ち並ぶ高層ビルが目に入るが、昔ながらの本屋や気取らない定食屋もあり、新旧の混在する場所である。一時期、人の流れが減ったと思ったら、いつの間にか元に戻っていた。陽光のもと、同じような服を着た人たちが、どこかうつろな目で歩いていく。たんぽぽの綿毛がふうっと息を吹きかけられて、ちりぢりになるように。
わたしは毎朝、その流れを避けるように駅へと向かう。マンション裏の細い路地を抜けて。むきだしになった地面、砂利や小石の感覚に、コンクリートに慣れきった足が喜ぶ。
路地を抜ける途中、古い雑居ビルがある。周りにいつでも植物が生い茂っているのは、管理人らしきおじいさんが世話をしているからだ。トレードマークは野球帽と、昔の酒屋さんのような藍色の帆布の前掛け。ビルの裏口付近、「立入禁止」の張り紙のある扉の前で、門番のようにしゃがみこんで鉢植えなどの手入れをしている。割と広いその背中に、挨拶をして過ぎる。
路地裏はおじいさんの領地だ。この場所は南向きとはいえ建物の狭間で、日の当たる時間はほとんどない。それでも植物は生き生きとしている。目の覚めるような赤いバラが咲き、朝顔の蔓が伸びる。小松菜やオクラが勢いよく生え、多肉植物が鉢からあふれる。おじいさんの手により、この小さな世界の心地よさが保たれているのだ。異変はすみやかに対処され、日常が続いていく。
以前、塀の脇で黒い子猫が死んでいたことがある。カラスにつつかれたのか、桃色のはらわたがのぞいていた。瞬時に顔をそむけて行き過ぎた。どうしたらいいかわからなかったのだ。翌朝、おそるおそる路地に足を運ぶと子猫の姿はすでにない。平穏な風景のなか、トマトがかたい実をつけていた。きっと、こんなエピソードがいくつもあるはずだ。
ある朝、いつものように路地を通りかかると、おじいさんが目の前で転倒した。大きな荷物をいくつも抱えて「立入禁止」の扉を開けるところだったようだ。とっさに駆け寄り「だいじょうぶですか」と声をかけると、その目を見開いたまま、黙ってうなずいた。「病院に行きますか」との問いかけには首を横に振る。わたしはとりあえず、あたりに散らばった箱や袋を集めた。中にはずっしり重いものもあり、「よくもまあ、ひとりでいっぺんに運ぼうとしたものだ」と驚く。
「ついでだから運びいれてしまおう」と、おせっかい心が出た。「立入禁止」の扉の前に立つと、後ろから「いいから」と止められた。思いがけず、強く硬い口調だった。わたしはうつむいて一礼すると、その場を去った。
その後、しばらく路地から足が遠のいていたが、午後からの休暇で出かける際、ひさしぶりに通ってみることにした。時間帯が違えば、おじいさんにも会わないだろう。
予想通り、路地の緑は濃かったが、誰の姿もなかった。ほっとしたような、がっかりしたような気持ちで行き過ぎようとして、例の「立入禁止」の扉が細く開いているのに気付く。おじいさんはこの中にいるのだろうか。耳を澄ませても、特に物音らしい物音はしない。
立ち入りはしない、ちょっとのぞいてみるだけ。そんな好奇心で、扉の隙間に手をかけた。
薄暗い部屋に、光が射し込んだ。四畳半ほどの床いっぱいにプランターが並んでいる。黒っぽい土の上で、緑色の点が不揃いな列をつくっていた。ああ、ここでも何かを育てているのだな。なあんだ。若干、肩透かしをくらったような気分だった。
扉を閉じようとして、違和感を覚える。肌が逆さに撫でられたようにぞわりとした。足もとのプランターに視線を落とす。生え出た無数の目が、一斉にこちらを見ている。目はそれぞれに小さな緑色の葉に抱かれ、この界隈を歩く人たちと同じうつろさを湛えていた。
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macoさんが、あたたかな光で拙作『路地裏の庭師』を生まれ変わらせてくださいました。
『この広い世界の小さな陽だまりで』
macoさんは心の名庭師!忘れかけていた自分に出会い直せる素敵な物語に、ぜひ触れてみてくださいね。「またがんばってみようかな」、そう思える力をもらえるはずです。
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