【書評】神林長平「いま集合的無意識を、」
「死者との対話に思うこと」
今年(注:2021年)5月の母の日に母が亡くなり、死者と対話する物語への関心が増していた。本棚を物色するとハヤカワ文庫の神林長平の『いま集合的無意識を、』が目に入る。表題作は神林と思われる作家が、インターネットを通じて死者伊藤計劃と対話するお話だったはず。
ぱらぱらとめくって読むと、やはり表題作に伊藤計劃が登場する。そこでは現実とフィクションの関係、人間の意識への考察、伊藤計劃への批評、そして作家=神林長平の仕事への倫理が語られているわけだが、ぼくはいまそのような思弁的内容ではなく、この物語が根本的には「死者との対話」、つまりは亡くなった人とふたたび言葉を交わしたいというありふれた願望の物語であることについて考えたいと思っている。
そのような物語は『古事記』の時代から存在しているほどなので、人間はよほどこのことについて考え続けてきたのだと思う。ぼく自身、母と二度と話すことができない事実が死の悲しみの大部分を占めているのもあって、こうした物語が非常に身近に感じられる。「いま集合的無意識を、」でも、死者伊藤計劃は「ぼくを呼び出したのはあなただ」と語り、作家もまた「ぼくは伊藤計劃に言いたいことがあったのだ」とそれを認めている。しかしその割に、最終的に「ぼくはぼくの仕事をする。もう邪魔をしないでくれ」という作家の(どこか前向きな)言葉で対話は終わる。自分で望んで自分で切り上げるこの身勝手さは、よく考えれば黄泉比良坂の物語とも似通っていておかしみがある。
文庫本三十ページ程度の長さの中で、中盤から終盤はふたりの対話が描かれるが、実際には対話の終盤では作家の思索のみが書かれていて、伊藤計劃の言葉は紙面に現れない。だから読者としては伊藤計劃が最後に何を言ったのか、読後すぐには思い出せない。伊藤計劃が作中に(現実に/虚構に)残した最後の言葉を探すと、「ぼくは、ここにいる」だったことがわかる。死者との対話という願望は実はそこが終着点で、死者からの「ここにいる」という言葉を聞きたいがために物語は綴られる。この願望はシンプルで力強く、その上に築く虚構は堅牢で、読み手に届きうる力をもった言葉として、幾つもの物語や哲学や人生を重ねて語ることが可能となる。
(この文章は、第3回ブンゲイファイトクラブのジャッジ応募の際に投稿したものを再掲しています)