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マッチョな世界

娘が、ピアノのレッスンに行きたくないと言う。
出される宿題を全くせずに、直前にやろうとしてもできなくて不貞腐れて、グズる。
気持ちは分かる。私もそうだった。だからこそ情けなくなるし、やめてしまえばいいと思うが、それでいいのかも分からない。
もうやめるか、と聞けばそれは嫌だという。そりゃ、先生との関係もあるし、相当の意思がなければ子の方からやめるというのも難しいだろう。私だって、どう言い出していいのかも分からないし、しばらく習ってきたことを簡単にやめさせていいのかも分からない。

弾けるようになることは楽しいが、楽譜を読むのは面倒。褒められるのは嬉しいが、練習するのは億劫。気持ちは分かる。
自分の経験から言えば、そういう気持ちでやって身になったことがないので、やめてしまった方がいいと思うが、子供に関してはそうではないんじゃないかと希望をかけてしまうのは何故だろう。


結局休んだり遅れて行ったりして、仕方がないので先生に現状を相談すると、今の練習の大切さについて話してくれる。
今努力して続けていけば、いつか先生のような演奏ができるようになる。楽譜が読めるようになれば、勉強もできるようになる。合唱コンクールの伴奏も務められるようになる。皆苦労して頑張っているよ。先生もやってきたことだよ。
そう言ってもらえば、子供はその気になる。夢は広がる。
しかし現実は?家に帰れば?
面倒なことはやりたくないのが人生である。子供である。結局好きなことならやるし、そうでなければやらない。やりたくもないことをやらせても仕方ない。
正直普段はそう思っている私だけど、本当にそうなのか?と、「先生」の話を聞くと不安になる。ちょっと気が向かないことでも、努力しないと何もできるようにならないのではないか。努力すれは何でもできるようになるのか。楽譜を見てピアノを弾けるようになることはそんなに大切なのか。

私は一教師であるけど、この先生のように確信をもって何かを語ることができない。だから「先生」然とした人を見ると圧倒されてしまう。苦労して何かを極めてきた人だから、そんなことが言えるのだろうか。そんな風に人に対して、こうするのがいい、と断言できるのは何故なのだろう。私にはそれができない。


帰って夫に話すと、楽譜を読むのは得意な人でなければダルい、それで楽しくなくなってやめちゃったら意味ないじゃないかと言う。努力できるのも才能の内なのに、努力できない人の気持ちを分かってくれないのが日本の教育の悪いところだよなと。
正直私も、何だかマッチョな世界だなと思った。マッチョな人々の言うことを聞いて、子供にマッチョな努力を強いないといけないのか?
正直前時代的で気が乗らないと思う。そんな私たちは、何者にもなれず社会の片隅に追いやられるのだろうか。


多分私の母も、子供らがそうなることを恐れて、マッチョな世界の端くれにでも乗せないといけないと思って、まともな努力を私たちに求めたのだろう。それはまともになるための努力とも思えた。そうでもしなければ、満足に暮らしていくための金さえ得ることができないことも事実だったのだ。だからその焦りは仕方ないことだった。
私はやろうと思えばその世界の端くれに乗る能力は何とか持ち合わせていたけど、結局はそこから降りてしまった。まともになると思っていたのに、なれなかった。いや、今も辛うじてまともなフリをして、社会から片足外して暮らしている。

まともとは何だったのか?私も娘も、努力すれば何かになれるのか?子供の頃は私もそう思っていた。でも今は違うと思う。努力してもしなくても、私は私でしかない。娘もそうだし、それでいい。それが最もいいことだ。当たり前のことだ。

努力して何かになろうとしなくていいとしたら、教育とは何なのか。私にはいつまでもよく分からない。
願わくば、私自身になるために何かを学びたいと思う。誰かと比べたり苦しむためではなくて、自分自身であることを心底肯定できるような。子供らの日々がそういうものであってほしいと思う。

私はマッチョな世界には乗らない。大人も子供も、自分のことは自分で決められる力を持っている。
誰からも、まともになれと脅されない世の中になってほしい。


都民の日は渋谷の松濤美術館へ


素晴らしい展覧会だった。

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