不自由なこと
昔から、喋ることが不自由である気がする。
中学生の頃、隣の家の同級生と一緒に帰っていた。自転車で並んで走りながら、彼女はその日クラスであった面白いことを毎日よく話してくれた。私はいつもそれを聞きながら、同意できないことには全然同意しなかったりと、たぶんいい聞き手ではなかったと思うのだけど、彼女は私が話を聞いてくれることが大事な時間だと言ってくれたことがあった。
本当は私も友人のように話がしたかった。でもその日学校であった面白いことを、思い出そうとしても出てこないし、どう話していいか分からない。はて?何で私はできないんだろうか?ちょっとした違和感。
私の母も話をするのは割と好きだった。近所の母親たちと話し込むことも当たり前にあった。パート仕事を始めてからは、仕事であったことや同僚のことを家でよく話していた。私も妹も、学校のことを具体的に話していたような記憶はない。
今も事務職の母は、同僚とのコミュニケーションには苦労していないように見える。愛想がよく、困っている人にはちゃんと親切にするタイプで、私はそうでないので、それも、はて?何だか違和感。
子供の頃、私ができないことはまだ子供だからなのだと思っていた。なんだかそうではない、と気づいたのは、もしかして30代になってからかもしれない。
私はもう子供ではないが、周りのようにできないことが多くある。ような気がする。そしてそれは、たぶんこれからもそうなのだ。
私は人のようにできるようにならない。
今の家での生活もそうだ。私は自分の仕事のことや興味のことをあまり話せない。話したくないわけではないのだ。話したくても話せない。自分が話すと変な感じがする。話そう話そう、と身構えて話し、尻つぼみになる。私の言葉はだいたいそうだ。伝える気がないように見える。
ASDは誰にでも敬語で話す、と例示されることがあるが、それは違うと思っている。私の場合は敬語が使えない。言葉を相手に向ける意識があるから敬語を使うことができる。私は言葉を相手に向けることが怖い。ですね、と言えず、だね、と言ってしまう。なるべく自己完結しているつもりなのだ。私の言葉が相手に届くことが怖い。
強いていうなら、場が決まっていれば話せるのだ。面接などの場面で、今あなたが話すターン、テーマはこれ、と決まっていれば、まともに喋れる。たぶんそういうときは妙に話すやつだと思われている。普段普通に話を振られると固まる。気まずそうだったり、たぶん迷惑そうにしている。人の中で、何と言っていいのか分からないのだ。
文章なら私は言いたいことが書ける、と初めて気付いたのは、大学の課題だった。テーマに沿って考えることを1枚書く、というのは楽しく、我ながらよくできていると思うことも多かった。
卒論は正直取り組み方を教えてもらった覚えはほとんどなく、自分の興味のあることを勝手に書いてしまった。自分の思うことにブレーキを掛けずに書いたらどうなるか、との試みの成果がどう評価されたかあまり覚えていないが、私は満足だった。今思えばあれが卒論でいいのか全く分からないが、勝手にやらせてもらったことは私にとっては有難いことだった。唯一感想をもらった恩師からは、文章に溢れるエネルギーが、構成を変えればもっとスパークするのでは、との言葉をいただいた。あの時伝わったエネルギーが、自分では気付かない怒りであったことも、彼女は気付いてくれていた。
あれから長い時が流れて、私は最近ここで、あの時と同じ気持ちで文章を書き始めた。自分の感情にブレーキを掛けず、遠慮や配慮をせず、情報の正確性すら気にせず、思うままに書いたらどうなるか。
それが楽しいからこうして続けることができている。話すことは不自由だ。文章なら言いたいことが言える。自分の弱みと強みを今やっと一つ理解した。
話すことが怖い私は、何がそんなに怖いのだろう。自分が撒き散らしている違和感、見て分かる不自由さが怖くて恥ずかしいのだ。私の言葉は変かもしれない。うまいことを言えない。冗談が言えない。何と言っていいのか分からない。人と興味を共有できない。そして、いちいち感受性が強すぎる。物事に対するこだわりが激しすぎる。そうして疲弊してしまう。
それでも、私に言葉がないわけじゃない。言いたいことがないわけじゃない。人と関わりたくないわけじゃない。本当は分かってほしい。
もう何年も前に、たぶん同じことを思って、私は自分の言いたいことを半分も口にできていないと夫にこぼしたことがあった。そうしたら、君ほど言いたいことを言えてる人はいないと、確か言われたのだ。その真意は今もよく分からないけど。
流暢に喋れることが、正直に生きていることではないのかもしれない。私には分からない、喋れる人の悲哀もまたあるのだろう。
正しい答え
正しい答えが分からずに
行き詰まる
立ち止まる
フリーズ
流れないやりとり
私はいつも怖い
思ってもないことには頷けない
だからといって
発した笑い声さえ
正しいのかと
引き攣っている
誰のために発する言葉か
どうやら私のためではない
私の言葉は
意見は 感情は
それならどこで 発すればいいのだろう
本当のことしか話したくない
それが本音
(2023.7.28)
言葉にならないもの
話すことは苦手だ
何を話したらいいのかわからない
思うことと話すことの間に
一億年の距離がある
父はゆっくり話した
途中で手から離れて
空中分解してしまいそうな言葉を
捕まえるまでの小さな間を
じっと待つことが好きだった
言葉が出てこない私のことを
誰が知ろうか
何を知ろうか
私のことを誰が聞いてくれようか
私は言葉につまる
言うほどのことはない
言った言葉は世界に晒され
そのものではないものとなり
こぼれ落ちていく
それが怖いのか
私は私の思いを守る
言葉にならないものは多くある
言葉にならないものでもこの世界はできている
言葉にならないものは私の中にあり
私とあなたとの間にあり
見えない姿で世界に語りかけている
(2024.1.13)
こういう思いを詩の方がうまく表現できている(かもしれない)。