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誰がケアするのか?

昨日から娘が熱を出している。
一日中ぐったりとして、テレビをつけながらソファで寝ている。こんなことは滅多にないので、私も大人しく傍で本を読んで過ごしている。
おかげで最近隙を見つけては少しずつ読んでいた本を読み終えることができた。

谷川俊太郎選『永瀬清子詩集』は、これまた若松先生が取り上げていた本だが、正直この厚みの詩集をこれほどスラスラ読めたのは初めてだった。(谷川俊太郎の自選詩集は全部読めていない。)
なぜかと思うと、女性としての生活の中で書き続けられた詩が、本当に分かると感じるものばかりだったからだ。
女性として村で生活していくこと、子を育てること、夫との関係の中で分かってほしい自分の思い。そういう生活の中で、何かを主張するためでもなく、書くことでこの人は生きてきたのだと分かる。それは今の私にとっても希望のように感じる。

もう一つは、岡野八代『ケアの倫理』。買った時は読む自信がなかったが、読み始めてみると全てが知りたいことばかりで夢中で読んだ。
大学の時学んだケア理論の知識があったからこそ読めたし、当時学んだ一対一の関係性のあり方についての理論を超える、社会と政治に対するケアの倫理からの提言であり、大著だった。

人間である限り誰しもが抱える脆弱性を無視し、女性に押し付けることで成立してきたのが資本主義の社会であり、それは今も変わっていない。
フェミニズムから生まれたケアの倫理は、政治そのものの考え方を根本から変えることを促す。それは誰もが平等な脆弱性を抱えた存在であることを受け入れ、ケアの配分を担う政治である。


夜中に頭が痛いという娘の声に起こされ、薬と水を取りに行って、口に入れてやる。脆弱性を無視できるなどどうして思えるのか、とぼんやりと思う。
このケアは、私がこの子を産んだ母親だから当然のこととしてする、というわけではない。
ここにある脆弱な身体と心に、誰かがそのニーズを汲み取り、応答しなければならない。それは不可避の必要としてそこにある。私の自己責任による選択によって生じた義務などとは無関係に、誰かがケアしなければならないからそうする。それ以上のことはない。

だれがケアするのか?ーWho cares?「知ったことか!」と誰かが言うとき、そこで手放されたケアを担う者が必ずいる。精神的な面でもそうだ。
子供が思うように動かないとき力で無理矢理動かし、結果拗ねて余計動かない子を誰がフォローするというのか?誰かが暴力に訴える時、では別の誰がその傷を癒すというのか?

子供は脆弱な存在である。それをケアするのは母性があるからではない。そこにニーズがあるから、ケアされなければ生きられない身体があるから、誰にも押し付けることができないからだ。
その必要と応答が人間生活の基盤にあるということ、誰しもに同じようにあるということを忘れて、世の中が成り立つはずがないと、誰かのケアに振り回されるとき、そう思えばいい。それは間違っていない、人間として最も根本的なものだと。

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