違和感
(2024/09/06に書いていたものを追記して10/26に公開しました。)
早くも、オーストラリア留学にきて半年。
そろそろ授業も慣れてきた。
ジェンダーに関する理解が進んでいて、ジェンダーをメインに取り扱う授業でなくても何かとLGBTQ+について学ぶ機会が増えた。
「付き合う」ことに対する違和感
これは自分の長年の悩みであったのだが、自分はずっと、(恋愛関係として)「付き合う」ということに対してどこか抵抗があった。そしてそれが常に悩みの種だった。
私は大学2年生の春に、両片思いだということを知っていながらもずっと友達の関係性を続けていた男性に告白された。
告白されたこと自体、一般的に考えればものすごく喜ばしいことだとされることもわかっているし、その気持ちも少しわかる。でも、「付き合う」という段階に進むことに対し、やはり少し、言葉に表すことのできない抵抗があった。
しかし、告白してもらった以上、答えは出さなくてはならない。悩み、彼とも話し合った結果、「少し抵抗はあるが恋心はあるため、人生経験としてでもよければ」という形で、交際を始めた。
「付き合う」や「カップル」と言われた時、1番最初に浮かぶ単語は何だろうか。
私の場合、「イチャつく」という言葉が最初に浮かぶ。そして、「女性が男性に守ってもらう」というような構図が浮かぶ。
私はその構図がすごく嫌だった。
理由はわからないけれど、不快感があった。
何で性別だけで弱いと決め付けられなきゃいけないんだろうという疑問があった。
性的な話題も嫌いだった。
そのため、性交渉も始めからしたくない(できない)と伝えていた。
何故私は好きな人と付き合っているはずなのにこんなに嫌なことが多いんだろうとずっと悩んでいた。
好きな小説•映像作品
オーストラリアの大学で、専攻のメディア系であったり、社会学の授業を履修していると、よく、「この学術用語の定義とそれを表しているメディア作品を紹介してください」と言ったような、授業内容と映像作品を組み合わせる課題が多く出される。
その課題の時に毎回、私が今までに刺さった、映画や小説を振り返ると、Little women (2019)、有川ひろさんの全小説(図書館戦争、空飛ぶ広報室など)、First Love 初恋、Harry potterシリーズなどが浮かんだ。
そして、それぞれのあらすじを思い出すと、全て、女性が男性と同じぐらい強い(自立している)ということを描いたものであると気づいた。
つまり、女性が男性に守ってもらうことへの反発を描いていた作品ばかりだった。
そこで気づいた。私は、社会的に、そして実際、二分化された男女という性別のうち、弱者である、「女性」として見られることが嫌なのではないだろうか。
「付き合う」ことへの違和感を振り返ってみると、友達のときは性別は意識せず、「友達」というカテゴリーで関わっていた異性が、「付き合う」ことによって、彼氏(男)と彼女(女)というジェンダーでカテゴライズされること(=女性として見られること)に、抵抗を感じていたのではないだろうか。そう考えると、腑に落ちる。
自分は、男とか女とか、二分化に区別され、そのそれぞれの「らしさ」を強要されるのが嫌だったんだな。
留学にきて良かった。視野が、本当に広がった。
「ジェンダー」の話題や授業がすごく苦手だったのも、きっとその性をカテゴライズして区別しけなければならないという動き自体が嫌だったんだろうな。
追記
10月になってから、日本の大学先でのゼミ選考が始まった。私はずっとこの人のもとで学んでみたいと思えるような教授に出会っていたため、その人の「参加を希望したい生徒像」を確認したところ、
との言及があった。やはりこの教授、そしてそのゼミはなんて私にぴったりなんだろうと感動した。日本に帰ってからの来年度からは自分のこの悩みについて研究したいと思う。すごくワクワクする。私はやはり勉強が好きなのかもしれない。
そして、このゼミへの志望理由書を両親に添削してもらったが、その約1週間後、突然父親からLINEが来た。
なんて素敵な父親なんだろうと思った。
もちろん、父親は何も悪くない。しかし、こうして謝ろうと思ってくれるような人に育ててもらえたことを、とても誇りに思った。
と、同時に、血は争えないんだなとどこかおかしくもあった。
ずっとこの悩みは1人だけのものだったような気がしていたけれど、決して1人ではない、むしろ家族にも同じ悩みを抱える人がいたこと。それがわかって本当に心が楽になった。
ありがとう、お父さん。
ずっと両親は私のロールモデルです。
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