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老母と私の農作ノート61

行ってきました教員対象の「動画編集講座」
やはりいました、ふんふんおばさん。
昨日と同じ席に座っていたので一目でわかりました。私はすぐに距離を取って昨日とは違う席に座ることにしました。

おかげで被害は少なめにすみました。ただし、今日は途中で気を抜いたせいか、動画の合成部分でわからなくなりました。質問担当の講師に聞いてわかったのですが、そのあとの流れについていけず残り30分ほどのところでリタイアでした。

ところで、マナーができてないどころか、人迷惑に気が付きもしない人とは距離を取るにこしたことはありませんね。ただし、それが身近な人だったらどうすれば良いのでしょうか。

今はセクハラやパワハラといった言葉があり、モラハラという観念もありますから、対処ができることも以前よりは多くなったと思います。

「気にしない」ということができたら素晴らしいのですが、ここで一つエピソードを紹介します。夏目漱石の『行人』にあるエピソード「マホメット喚山」という話です。内容は以下の通りです。

雪山

 …私がまだ学校にいた時分、モハメッドについて伝えられた下のような物語を、何かの書物で読んだ事があります。モハメッドは向うに見える大きな山を、自分の足元へ呼び寄せて見せるというのだそうです。それを見たいものは何月何日を期してどこへ集まれというのだそうです。
 期日になって幾多の群衆が彼の周囲を取巻いた時、モハメッドは約束通り大きな声を出して、向うの山にこっちへ来いと命令しました。ところが山は少しも動き出しません。モハメッドは澄ましたもので、また同じ号令をかけました。それでも山は依然としてじっとしていました。モハメッドはとうとう三度号令を繰り返さなければならなくなりました。しかし三度言っても、動く気色の見えない山を眺めた時、彼は群衆に向って言いました。――「約束通り自分は山を呼び寄せた。しかし山の方では来たくないようである。山が来てくれない以上は、自分が行くよりほかに仕方があるまい」。彼はそう言って、すたすた山の方へ歩いて行ったそうです。
 この話を読んだ当時の私はまだ若うございました。私はいい滑稽の材料を得たつもりで、それを方々へ持って廻りました。するとそのうちに一人の先輩がありました。みんなが笑うのに、その先輩だけは「ああ結構な話だ。宗教の本義はそこにある。それで尽くしている」と言いました。私は解らぬながらも、その言葉に耳を傾けました。… ―『行人』「塵労」三十九・四十

つまり、相手を変えられないのなら自分が動けという話でしょうか。まあ、私の狭い解釈では「宗教の本義」までは到達しませんが。

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