【随筆1】源流
体育館がふっ、と暗転する。一瞬のことであった。肩の力が抜けて呆然とする私に唯一届いたもの。それは、会場を埋め尽くす拍手喝采だ。今でも忘れられない、寒さをじんわりと感じるようになった中学二年生の秋の話である。
私の母校は、全校生徒約六十人の小さな学校であった。
学校祭とは名ばかりで行うのは、学習発表会の延長でしかない。その程度のものであった。出し物はステージ発表と決まっていたのである。
「今年は何をやろうか」
そんなクラスの話し合いが始まった。沈黙の時間が流れたり、全く関係ないことをぺちゃくちゃと喋る人もいたと思う。
そんな中でどこからともなく、声が上がった。
「今年も、映画をやろう」
その声が複数であったか、そうでなかったかは定かではない。ただ、その瞬間にみんなの意思がそちらへと傾いていったのがわかった。
ふと、中学一年生の学校祭で、私たちは、学級担任監督の元、映画を作ったことを思いだす。
映画にすれば、リテイクもできるし、本番は観客に徹することができる。映画は、楽なことだ。そう考えていたに違いない。
映画作りの大変さなどはつゆ知らず、私は軽い気持ちでそれに乗っかったのである。この時の私は根拠もない、軽い気持ちで、できるだろう、と考えていた。
担任が「やれるの?」と聞いていたのを覚えている。担任は、その年に赴任してきた先生で、私たちが映画をつくったことがあるのを知らない。当然の疑問であったと思う。
私は、その担任の言葉など右から左に聞き流して、できると思います、といった。
そうして私は、本当に軽い気持ちで、クラスの映画制作のすべてを引き受けることとなった。脚本から、演出、撮影、編集までのほとんどを私一人で担うこととなったのである。
あろうことか、「どんなジャンルがいい?」と聞いた結果、多数決で「ミステリー」にしようとなってしまった。今でもミステリーの難しさというものに直面しているのに、中学二年生にまともなものなど書けるはずもない。
実際に制作が始まると、私は自問自答を繰り返す。
「本当に面白い?」
「つまんないんじゃない?」
「面白いよ、たぶん」
「つまんないじゃん」
そんなことを延々と考えていた。
睡眠もまともに取れなくなって、学校祭一週間前になると、一日一時間の睡眠で学校に行くことも少なくはなかった。弱音を吐いてしまいたいのに、吐けない葛藤に悩まされ、しかしそれでも私が挫けてしまえば、取り返しがつかないのだと無理やり自分を鼓舞して作り続けた。辛くてたまらず泣きたくなった。
それでも、完成させなければならない義務感だけをモチベーションとし、作り上げる。そうして、学校祭が始まる数時間前にようやく完成版が出来上がった。
本番当日、上映が始まる。
本編はミステリーというだけあって、シリアスさがまさり、場内が体育館のスピーカーから淡々と流れるばかりであった。私は本編が終わり流れるエンドロールで、こくりと息をのむ。
劇中で使用した曲に、本編では全く使われていない曲が使われているとわかった時、一瞬、場内がざわりとしたのがわかった。緊張の線が張ったのである。
そしてその後、私が一番こだわった本編では使われなかった、NG集パートが流れる。それまでの張り詰めた空気が一気に笑いで満ち溢れ始めた。
上映終了後、暗転する体育館は、拍手で満ちていた。
私は心の中で強くガッツポーズをした。そのとき私を構成していたものは、達成感しかなかったと思う。
初めて、しかも一人で、演者もやりながら作った自分は、大人の目線から見ても一度賛辞を送りたい、そう思っている。未熟すぎる過去の自分が色濃く反映されているDVDに焼いたあの映画は、今はもう見ることができない、記憶の中だけのものだ。振り返るたび、恥ずかしさを覚えるからだ。
しかしそれでも、このことは私に取って貴重な経験だ。
それで身につけたストーリーをつくりあげることや、小説を書くこと、動画を編集する技術は、その経験からきたものであるからだ。
このことがなければ、私は一人の創作者になっていないかもしれない。
これこそが、私の源流だ。