英訳:グレース・ラヴェリー

twitterで流れてきた「書くこと」に関するエッセイがとても面白かったので和訳してみた。(素人翻訳です。3箇所ほど、文意がつかめなかったところがあります)
筆者のグレース・ラヴェリー氏はカリフォルニア大学バークレー校教授。トランスジェンダーの女性。
文中に登場する御木本隆三氏は、御木本真珠店創業者の息子で、ラスキン研究者。

https://lithub.com/grace-e-lavery-you-already-write-how-you-write-just-give-in


(全文翻訳は著作権的にまずいようなので後半の一部のみ)

生徒たちがどのように書いているのか、私は知らない。おそらく一部の生徒は毎日コツコツ、とか、やってるのだろう。一部の人はできるらしい。うらやましい。いつか誰かに、執筆中の私の近くにいることは絶えず嘔吐している人を見ているようだと言われたことがある。書くことも、見ることも、私はおすすめしない。もしあなたが毎日コツコツできるなら、それに越したことは無い。しかし分からないのだ。誰にそんなことができるのだろうか。もしかしたら躁転が助けてくれるかもしれない。考えづらいことだが・・・

文字通り世界でもっとも優秀な院生に書くことについて指導して分かったことは、書く事は病的だが、その病理は症状そのものではなく、治療しようとする試みのなかに潜んでいる。私は恩師のように書こうとして失敗した。しかし恩師は恩師で別の誰かのように書きたいだろう。私たちはノートパソコンを前にぐずぐず先延ばしする―失礼、医学的には「抵抗」する―そして出てくるのを嫌がっている何かがくるのを待つ。でてくるまではでてこないのだ。私たちはその完璧主義を育てる―医学的には「不安」。

私たちは読者をコントロールできない。一部の読者は私たちを嫌うだろう。分からないからではなく、完全に理解した上で嫌うだろう。私も、すばらしい書き手の中に嫌いな人もいる。誰がエリザベスビショップを好きになる?これは全部ロマンチシズムに聞こえるかもしれない。でも生徒が「どうやって書いたら良いか」と聞いてきたときに、私の答えは一つしか無い。「あなたがこれまでにやってきた方法で書くしかない。自分を正そうとするのをやめなさい」

自分を諦めた先の自由は、自分本位の管理が必要な自由よりもはるかに興味深い。他の作家を模倣したっていいし、論文を好きなもので詰め込んでもいい―誰が気にするもんですか、お気に入りを見つけなさい!。そして最も重要なことは、言いたいこと無しにいい文章を書くことができるというファンタジーを手放すことができる。そんなものはないのです。言いたいことを見つけて、言いなさい。それだけなのです。

私はコロナの後遺症でアタマがぼーっとしていたとき、ほとんどベッドを出ないまま2週間で本を書いた。その記憶はほとんどない。先日読み返してみたら、なんとなく気に入った。

誰かの書き物を自分への贈り物のように扱えることはとてもすばらしいことだ。本質的には、他人にあげる贈り物だが、他人の目から自分の文章を読んだときの感じは分からないのだから。

最後にいくつか。一つ、自分の仕事をしなさい。自称ライターの問題は先延ばし癖、つまり抵抗だけど、別に問題ない。もし書けないなら、読めばいい。何かほかに好きなことをすればいい。

強制しないで―もしかしたらその「何か」は出てこないかもしれないけれど、それならそれでいい―。全てのものが書かれる必要はないし、全ての人が書く必要もない。

第2に、一度職業的に確立してバカだと思われることを言う自信がついたら、自分の執筆習慣について正直でいなさい。「嘔吐屋」はあなたが思っているよりもたくさんいる。私たちには、自分の執筆習慣が悪いと信じている人の気持ちを楽にさせて上げる絵s帰任があるのです。

三つ目に、編集はいいけれど「あとで直す」の姿勢はやめたほうがいい。初回で決めるのを目指した方が良い。私はたいてい、自分の文章を編集すると悪化する。他人が編集したほうがずっと良くなる。理由は簡単。

四つ目に、調査よりも全体の構成を先走らせないこと。うん、これは守った方がいいかも。


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