幸せとは何かを考える旅
日差しが強く、暑い毎日が続く。ジョグジャにいる時よりも、ここバヤン村の方が格段に暑い。実際に気温が高いのかどうかはわからない。ただ太陽が照りつける地面や建物を間近に見ながら、テラスでたたずんでいると、暑さを強く感じる。
先ほど昼ごはんを食べて、皆は調査に出払っている。さっきまで庭で遊んでいた子どもたちも気づけばいなくなった。昼ごはんのかたづけをすませたイブ・ティサは、木陰で露台に座って、機織りをしている。カンカンと木と木を打ち付ける音を聞きながら、太陽の照りつける庭をぼんやりと眺めている。
ここに来て、もう何日か経ったが、毎日このテラスから村の人の生活に触れている。
バヤン村の生活
お父さんは6時には出勤する。イブ・ティサは朝5時には起きて、ご飯を用意しているのだろうか。庭やテラスを箒で掃き清めるのも朝イチの仕事である。昨日のうちに捨てられたビニール袋やご飯の食べかすや、木々の落ち葉などが箒で集められ、庭はきれいになる。
7時ごろになると我々の朝ごはんである。日が照り始めると、砂埃が舞うのを防ぐためなのか、それとも放射熱を抑えるためか、庭中に水がまかれる。
行商の魚売りのおばちゃんがやってくると、時たま彼女から魚を買う。今日はイカを入手したようだ。昼ごはんは、イカの煮込みと、テンペと豆腐の揚げ物、豆腐と茄子の甘辛煮であった。毎日毎日、毎回毎回、料理は美味しい。
昼を過ぎると、子どもたちが帰ってくる。小学生の近所の子どもたちも帰ってくるし、中学2年生の娘も帰ってくる。仕事を終えて帰ってきた甥がふらっとやってきて、昼ごはんを食べて行った。みんなの分を作っておいて、それを適当にそれぞれがそれぞれの時間に食べるのであろう。
そして今、機織りの時間である。
今日も暑いので、もう少ししたら昼寝の時間であろうか。夕方になると晩御飯の準備も必要だし、お父さんも帰ってくる。
2日前までは、田んぼの稲刈りを皆にお願いしていた。7人の女性たちに毎日作業してもらっていた。今回の収穫は4日かかったであろうか。1日につき1人70000ルピア(700円)を支払いに夕方には田んぼに出向いていた。
時間があれば、夕方にもう一度、庭に水を撒く。昼間にほてった地表面を冷ますためだろうか。建物の中は風が通らないので、夜は暑く寝苦しい。
いまは我々が滞在しているので、夕方以降は、親戚や近所の子どもたちもたくさんやってくるし、日本人たちはずっと酒を飲んでいるので夜が遅い。特に昨日からはジョグジャからアトマジャヤ大学チームもやってきたので、今晩は夜遅くなるかもしれない。昨晩もアトマジャヤチーム3人と私とジャナとが23時まで話し込んでいた。
我々がいる時には、夜は必ず一緒にいてくれる。話をしながらみんなで盛り上がることもあれば、ぜんぜん別のグループでそれぞれでいることもある。盛り上がっているのは我々だけで、彼らはただボーッと座っているだけのこともある。
基本的に村にいて生活に困ることはないのではないか。基本的に皆ここの人は農民であり、米を作ったりコーヒーを作ったりしている。お父さんは区役所の人なので、ある程度まとまった現金収入もある。
市場はバイクで5分ほど北に行ったところにある。そこで日常的な食料品は入手できるし、種類は限られるが、このエリアの道路沿いにも食料品を扱う店はある。行商から買うこともできる。
スマホもあるしインターネットにもつながるし、電気もつく。水はリンジャニ山からの山水を引いて上下水として使っている。飲み水は購入したものを使う。ガスはプロパンである。
東ヌサトゥンガラ州の州都マタラムにはバイクで2時間ちょっとである。先日コンサートをみにマタラムに行っていた。昨日から、ジャナの娘も試験を受けにバイクでマタラムに行っている。マタラムの郊外の住宅団地に家を購入していて、マタラムに行く時にはそこに泊まっているようだ。
みんな幸せな毎日を送っているように見える。ここに流れる時間はすごく穏やかな時間だ。常にニワトリの鳴き声が聞こえる。猫もいれば犬もいる。親族の関係は密で、みんな一緒に暮らしている。
無駄な欲望にさらされずに、手に入るお金や食料で、みんなと一緒に楽しく暮らしている。
少なくとも、日本の生活が豊かだなどとは微塵も思えないし、この村の生活は、一つの豊かさを提示し得ていると思う。
個人の生活や人生に照らしあわせて、日本と比較しながらこの村の生活の豊かさを考えてみよう。
(1)関係
一つ目の指標は、関係である。人間関係やコミュニティをイメージしている。私が泊まらせてもらっている家は、イブ・ティサの家であるが、夫(お父さん)は9人兄弟の8番目である。30年前からつきあいのあるジャナは7番目である。イブ・ティサ自身は西バヤンの出身で、この家から歩いて3分のところに実家がある。9番目の弟は毎晩のように夜やってきては1−2時間話をして去っていく。3番目のお姉さんは斜め向かいの家に、2番目(?)の兄の後家さんと一緒に住んでいる。今も目の前で3人の子どもが遊んでいるが、彼らは何からのかたちで血のつながる子どもたちである。
家族・親族ネットワークの網の目の中で生活をしている。何かがあった時には、誰かが何らかのかたちでサポートしてくれる。
日本では、子どもが少ないということもあるが、親族それぞれが離れて暮らすことが多く、相互のつながりもそこまで強くない。いざという時は助け合える状況はあると思うが、逆に社会的なサービスがきめ細かいので、血縁ネットワークを頼らずとも対処できる仕組みが多様にある。
(2)健康
二つ目の指標は、健康である。寿命で判断するとすれば、インドネシアは分が悪い。男性の平均寿命が61歳、女性が74歳である。特にバヤン村では、まわりにも若くして亡くなった人は多い。2週間前に親族の一人が40歳代で肺の病気で亡くなったばかりである。ジャナの奥さんも2年前に腎臓の病気で亡くなっている。おそらく医療設備が十分でないため、日本では到底死ぬことのないような病気で死んでいくんだと思う。昨日も近くの歯医者に行ったが、レントゲンすら取ることができなかった。歯のレントゲンを取るには2時間かけてマタラムに行かねばならない。マタラムでも十分な医療が受けれるとは限らない。ジャワのいくつかの都市では可能だと思うが、他の島では多少なりとも問題があると思われる。
一方、肥満や運動不足という観点で見ると、この村の人は日本の平均より健康的だと思う。ただ喫煙率は依然高いので、それが男性の平均寿命を下げている可能性はある。
もしここに住むとして、定期的に血液検査を受けつつ、大きな手術や治療が可能な医療機関をマタラムかどこかであたりをつけておけば、十分健康寿命を延ばせるような気がする。
(3)社会
三つ目の指標としては、仕事を設定してみた。仕事といっても金儲けのための仕事ではなく、社会的な関係の中で自分を活かす場を見つるための媒介としての仕事という位置付けである。
インドネシア社会は、様々なチャンスにあふれていると思うが、この村はどうであろうか。農業が主産業であり、その状況は将来も変わらないだろう。この村に生まれ育てば、農業に携わり続けるというのが、自然である。あとは行政の仕事や、リンジャニ山への観光客を相手にした何らかの仕事であろうか。何か新しい事業を立ち上げ、社会を新しく更新していくような仕事を起こすのは難しいかもしれない。ポテンシャルはあると思うが、それを活かす知恵や実行力を持った人材がいない。
(4)経済
四つ目の指標は経済である。物価がまったく異なるが、ジャナの息子の給料が月1万円前後だったと思う。家があって、家の田畑で農業を営んでいて、妹も働きながら一緒に住んでいて生活が成立している。一人一台ずつバイクを持っているし、スマホも持っている。
職場もさほど遠くないので移動にお金がかかるわけではなく、食事も米は自分の家で作ったものがある。贅沢をしなければ、生活はできるんだと思う。
さほど稼がずとも生活ができるのなら、稼ぐ必要もない。日本人のように欲望にまみれた生活をしようと思えば、稼がねばならないだろう。お金を使うことと、豊かさとの関係の整理は、なかなか難しいが、少なくとも言えるのは、お金を使わずとも享受できる豊かさは多いということは確認しておきたい。
(5)文化
五つ目の指標として、あまり触れられることがないが、文化という指標をあててみたい。イメージしているのは、儀礼に満ちたバヤン村の生活である。生活文化といっても良いだろうか。9月にムハンマドの生誕祭があったが、その際、各地区で皆が集まり食事を作り、皆にふるまっていた。2月には親族の割礼の儀礼があり、一族をあげて準備や実施に携わっており、期間中は多くの供物が準備され、盛大に儀礼が行われたという。今回、滞在中も他の地区で同様の割礼の儀式が行われていた。
毎日の生活は静かで落ち着いたものであるが、定期的に年に何度か、儀礼を通して固有の文化に触れる機会、固有の文化の担い手としてハレの場に参加する機会がある。
京都に住んでいた時に、8月には地蔵盆が家の前の路地であった。北に30m行ったT字路の突き当たり横にあるお地蔵さんを祀る祭りである。年に一回であるが、いつもの路地は、地域の人たちの集まりの場になっていた。お寺からお坊さんが来て念仏をあげる。
とはいえ、こうした機会は稀である。文化性をどう規定するかという問題はあるが、伝統とともに生きるバヤン村の人々の生活は豊かな文化性にあふれていると言える。
今回、わずか6日のバヤン村滞在であるが、バヤンの人々の毎日の生活を眺めながら、日本の社会が、労働を強いる社会であり、個人の時間を奪う社会であり、人との関係を生まない社会であることを実感した。
成熟社会の到達点として日本の今があると思うが、今一度立ち止まって、我々の幸せがどうあるべきかを考える必要があると感じた旅であった。241030