「ポスト構造主義と準文学的なもの」解説:ロザリンド・E・クラウス『アヴァンギャルドのオリジナリティ』入門

「ポスト構造主義と準文学的なもの」は、その他の『アヴァンギャルド〜』収録論考とは異なり、シンポジウムにおける、あるセッションの基調論文に対するコメントがもとになっています。なので、とても短いです。そして翻訳では「です・ます調」で訳されています。

その主な内容は、「準文学的(パラリテラリー)」な批評のテクストを紹介するものです。その「準文学的」という語の意味は、文字通りに「(文学じゃないけれど)文学のような」です。
つまり、モダニズムの批評が文学(あるいは芸術)から離れて、いわば自立的に批評行為をおこなっていたのに対し、ポストモダニズムの批評はそれ自体が文学のようだというわけです。以下では、どのようにクラウスがそのような批評——ジャック・デリダとロラン・バルトによるもの——を紹介しているかを解説していきます。

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クラウスは自身が聞いた、その2人の批評家(あるいは哲学者)の講演を紹介します。

1つ目はデリダによる、「ハイデガーの「芸術作品の起源」における主張を検討しながら、一般に一足の靴を描いたものと考えられているファン・ゴッホの絵画に焦点を当て」た講演です。
クラウスがその講演について強調するのは、以下の「演劇」的な点です。

その講演でデリダは、より形式的な彼自身の言説の流れが哲学的論争の言葉を長々と繰り広げているときに、頻繁にその話の腰を折ったある声の役割を特別に強調しました。少しばかり高い裏声で演じられたこの声は、デリダの説明するところでは、女性の声で、それは論評の整然たる秩序のなかに、少々ヒステリー性で、ひどく憤慨し、そしてなにより短気な問いを繰り返し差し挟むのです。彼女は、「何の一足?」、「誰がそれを一足の靴だと言ったの?」と言い張り続けます。ところで、女性として配役されたこの声は、もちろんデリダ自身のものであり、他のもろもろの理由からもっと教授らしいペースで進めねばならない中心議論に、熱を帯びちょっと変装したかたちで、抗議するという役割を果たします。

ロザリンド・E・クラウス「ポスト構造主義と準文学的なもの」『アヴァンギャルドのオリジナリティ:モダニズムの神話』谷川渥・小西信之訳、月曜社、2021年、 425頁。強調原文。

ここで言われているのは、デリダが自身の講演中に別の「声」を挿し入れているということです。クラウスは、そのことによってその講演が「演劇化」し、批評(あるいは哲学)を文学のようにしていると言います。
つまり、「この声はデリダのエクリチュール[書き言葉]空間を開放し演劇化する役目を果たし、そして私たちに、以前は文学の特権であり、批評や哲学の言説のそれではなかった、複数のレベルと様式と話者とによる劇的な相互作用に注意を向けさせるのです」(425頁。強調引用者)。 

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2つ目はバルトの講演、「長いあいだ私は早くから寝たものだ」です。この講演タイトルは、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』内の有名な一文の引用で、その点だけでも文学的です。
(クラウスは直接的に言及していませんが、プルーストは反対に、小説内に批評のテクストを入れ込んだことでも知られています)。

ところでクラウスは、こちらの講演については、批評自体よりも文学の問題のほうに焦点を当てています。バルトの「文学」についての理論こそが、その批評が準文学的なものであることを、彼自身に促しているというわけです。いわく、

[デリダやバルト]がより最近の著作において準文学的なるものを生み出しているのは、もちろん理論的帰結——いわば彼ら独自の作動中の理論の帰結——なのです。これらの理論は、Xという作品があるとしたら、その背後には、作品の字義どおりの表面を批評家の解釈的任務が突き破り引き剥がすことによって解明し露呈させる、一群の意味aやbやcが控えているという考え方のまさに反対に向かっています。

426-427頁。

ここで言われているのは、それまでの批評が作品の背後に隠された「意味」を解明しようとするものだったのに対し、バルトらはそもそもそんなものはないと主張しているということです。つまり、「埋められていて「抽出[・解明]され」なければならないものはなにもないのであり、すべてはテクストの表面にあるのです」(428頁)。

例えば、バルトの著作『S/Z』は、オノレ・ド・バルザック『サラジーヌ』がいかに「引用」からできているかを明らかにしています。

それゆえバルザックは、『サラジーヌ』の語り手を取り囲む3人の女性を紹介しつつ、マリアニーナについてこう描写するのです、「齢16で、東洋の詩人が夢想するお伽話から抜け出たような美しさを湛えた少女!〈魔法のランプ〉の物語に出てくるサルタンの娘のように、彼女はヴェールを被ったままでいるべきだった」と。この描写に対しバルトはこう応えます、「これは文学に非常によく見られる常套句である。つまり〈女性〉が〈書物〉をコピーするということ。換言すれば、あらゆる肉体が引用なのだ——「既に書かれたもの」の。欲望の起源は、彫像であり、絵画であり、書物なのである」。

429頁。

(クラウスが引用する)バルトの言葉の意味するところは、マリアニーナという女性の登場人物が、「東洋の詩人が夢想するお伽話」に登場する少女の「コピー」であるということです。それからこのことが一般化され、あらゆる登場人物は過去の書物(やほかの芸術)からのコピーであると主張されています。

そして、このような理論にしたがって批評をするために、バルト自身の批評もまた、「いつのまにか、多数の声や引用や挿話や余談からなる、劇的な蜘蛛の巣に捕らえられているのです」(426頁)。

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クラウスは、次のように論考をまとめます。

[…]明らかなことは、バルトとデリダは今日学生たちが読む、批評家ではなく、作家(ライター)だということです。

431頁。

準文学的な批評を書くものは、もはや批評家ではなく「作家」だ(とみなされる)ということですね。
(なお、クラウス自身による準文学的批評は、おもに『視覚的無意識』においておこなわれていますので、興味のある方はそちらを)。

今回は以上です(「ポスト構造主義と準文学的なもの」の議論、というか論調はかなり時代を感じさせますが、実際ちゃんと読み返してみると、なかなかおもしろいテクストだと思いました)。
お読みいただきありがとうございました。

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