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「多様性」に敏感な世の中で、生きづらさを感じたときに

「多様性」の在り方を考えた時に、皆さんはどのような状態が理想だと思いますか?

私は「多様性」とは、”そういう人もいるのか~と存在を把握して、棲み分けていくこと”であって、
万人すべてを受け入れ、愛していくことではないのかなと思っています。


近ごろSNSで論争がされていたり、映画などのコンテンツでメッセージとして提示されていたりということが増えてきたなあと感じています。

映画やドラマに関しては、少し前からそういった作品はあったのですが、ディズニー作品をはじめとする大手の映画の中でのキャスティングや登場人物として顕著になってきていますよね。


人種や性的思考だけでなく、もっと身近な考え方であれば、
会社や学校で苦手な上司・部下・クラスメイトといった、自分と考え方の合わない人達に対する「多様性」も、一緒に考えてみましょう。


結局過干渉を避けるくらいがちょうどいいのかも


正直私も、まったく共感できない考えを持つ人とそこまで親しくなることはできないし、万人すべてを認められるほど、心が広く持てないです。。


そして、それは私個人の価値観であったり、生まれ育ちのルーツにかかわる根幹の考え方であったりすることでもあり、
相手もまた然りで、そういったもので相手の価値観が形成されているので、どうやっても分かり合うことはできないかなと思います。


結論、自分の居る大きなコミュニティ(学校・会社)の中で、
少し自分の価値観の遠い場所にこういう人がいるんだな、と存在を認識する程度で良いと考えるようにしています。


逆に、存在自体を認めないような態度まで行き過ぎてしまうと、いじめやパワハラが生まれます。

その感覚を養うことが難しく、加害者側は自覚がなかったり・悩んでいないケースもあるので厄介ですが、
かくいう私も、すごく合わない相手に出会ったときに、相手を全否定するようなそんな思考に至っていないか振り返るようにしています。

一方、自分が加害者にならないように意識することは、自分の心持ちでどうにでもなるところですが、
こちらに矛先を向けられた時がやっぱり大変ですよね。

相手から受ける嫌悪が激化していくと、受け取る側は心を壊してしまったり、一生心に残る傷がつくこともあります。

地球に生まれた以上、差別はなくならないし、どう頑張っても偏見は消えない(それは人間に生まれた以上、被害者側の中にも自覚・無自覚に関わらず持っているものだと思います)ので、

過干渉されないようなコミュニティーを探して移ったり、折り合いがつく程度のストレスであれば、どうにか別の場所で発散するしかないのかな…と。

私自身の悩みでもあり、解決に至っていない問題でもあるので、難しいところです。

余談ですが、中学生の頃はかなりいじめられていて心療内科でもらった薬を飲みながら生活していました。
自分がかなり浮いている自覚はあったので、それでも周りに負けず、流されず、自分に誇りを持っていようという気持ちは強くありましたが、
一方、打たれ強くはなかったので、目立ってしまう反面、心身にかなりの影響が出てしまっていたのを覚えています。

大人になって振り返った時、良く考えれば、私に矛先を向けていたあの子は、持ち物がボロボロだったり、忘れ物が多かったりしていて、家庭に何か問題を抱えていたのかな、とか、
私は学力や家柄関係なく、その人といるのが楽しければ友達になりたいと思うタイプでしたが、相手はそうではなく、嫉妬やひがみがあったのかも、とか、
色々思うようになりました。

私のケースですが、相手から嫌悪を受ける場合、
相手の想像力の欠如によるものや、私自身の想像力の欠如によるものが多かったので、当時の状況を大人になって俯瞰して、考えられるようになった今、「こういう風に考えられれば当時の私のストレスも軽くなっていたかもしれない」と思えるようになりました。


とはいえ中学生の子供の私に、相手の様子や身なりで学校外の事情などを汲んで、例えば「夏休みに旅行してたのしかった」(=旅行に連れて行ってもらえる家庭であることを想起させる)のような、火種になりそうな発言を先回りして慎んだり、
テストの点が良かったからと言って、喜んだりするなと制限しておくべきだったなと叱るのも、あまりに無理な話で。

むしろそこまでできてしまったら、年相応でもなくなってしまうなあと思うので、大人になってから、当時悲しかった自分の気持ちは否定せずに、
でも、そういう事情もあったのかもな~と思えれば、過去の自分が消化されるような感じがします。


相手を知りたい/理解したいという想いの裏に潜む固定概念

また、相手のことを受け入れたい・愛したい/親しくなりたいと思うのは良いことですが、
相手を自分の固定概念にあてはめて理解した気分になっているのは、結局相手をかえって苦しめてしまいます

私の経験で、以前いた職場で、「あの人は女なのにスカートを履くことを嫌がっているような発言をしていたから、本当は心が男性なんだな」みたいなことをポロっとおっしゃっていた上司がいました。

部下の私がそれに反応すると話が厄介なことになるので、そっと本音をしまいつつも、その時率直に私が思ったのは、

「スカートあまり好きじゃない女性もいるし、それだけでセクシャリティを第三者に勝手に決められるのもつらいなあ…」

こんな感じの気持ちだったと思います。
私も、スカートよりもパンツスタイルのほうが好きですし、
かといって、それだけであなたは心が男性なんですね!と言われるとそれはまた違う・・・・と思ってしまいます。

(そもそもそれが当たっていようと、いまいと、このようなセンシティブな内容をみんなが聞こえる場で話すのも良くないことですけど)

上記のように、見た目や相手の発言で、本人が公言していないにも関わらず、この人は実は心が男性なんだ/女性なんだ、と考えるのは、良いことではないんじゃないかなと。

もちろん、トイレだったり銭湯だったり、健康診断だったり…生まれ持った身体という意味で、男女の区別は必要な場はあると思いますが、
相手の趣向については、男女とかで区別してラベルを貼るのではなくて「そういうものが好きな人間」くらいの気持ちで良いのではないでしょうか…

前章で触れたように、相手の立場に立って想像することも大切ですが、自分の固定概念の中に無理やり相手を押し込んで、こうに違いない!と視野を狭めてしまうのも良くないので、塩梅が難しいですね。。。。

加えて、セクシャリティに関してはそもそも、生物学のようにぱっきり男女のように分けられるようなものでもなく、グラデーションですから、
身体的特徴のようにセクシャリティを男女の2択で考えること自体ナンセンスな気がしています。

心の中で思うまでは、何考えていようと自由ですけど、
発言になってくると、私が発する分それを受ける人がいるということなので、
SNSが発展して、相手の顔が見えない世の中になっていますが、
相手の顔を思い浮かべて、相手の根幹を刺激する可能性のある発言をぐっと飲みこんだり、どうしても伝えるべきことであれば伝え方を工夫できるような世界になればいいんですけどね。。。。。


まとめ

そんなわけで今回は、日常に潜む「多様性」について触れてみました。

振り替えるとそこまで結局触れられていなかったなという気もしますが…

いろんな考え方を持つ人と友好的な関係を築こうとして疲れてしまっている人、周りからの視線に生きづらさを感じている人にも、多様性を考えるきっかけになれば幸いです。


最後に、他者とのかかわり方についてを描いた映画の中で、個人的最適解だな~と感じた映画を1作ご紹介いたします。
ディズニー ピクサー作品の『あの夏のルカ』です。

私の個人ブログですが、この作品のおすすめな部分をご紹介していたので、
別途ご連携させていただきます。
お時間がございましたらご覧いただけますと嬉しいです!


では、またお会いしましょう~

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