「「普通」ってなんなのかな 自閉症の僕が案内するこの世界の歩き方」(ジョリー・フレミング、リリック・ウィニック著、上杉隼人訳、文藝春秋)
読了日: 2023/11/20
自閉症と診断された共著者ジョリー・フレミングは高校卒業後、地元のサウスカロライナ大学を卒業し、ローズ奨学金をを得てオックスフォード大学大学院に進学し地理環境学を修了しました。現在はサウスカロライナ大学の地理学科の研究員を務めています。
本書の趣旨は、自閉症という”障がい”のりこえて、高等教育を修了したという"奇跡"がいかになされたのか、というものではありません。
彼が、人と接して言葉を交わしたりするとき、周りの環境を把握するとき、日々の生活を送るとき、どのように感じていて、どのように脳の働きを感じて制御して、どのようなことに意識的になっているのか、などを共著者のリリック・ウィニックによるインタビューにより構成されています。
「定型発達者」(*1)(この言葉を本書で初めて知りました)ではないジョリーは自身が「定型発達者」ではないことを認識しています。これは幼少期からのセラピーなどの医学的診断などから「定型発達者」との違いを認識するようになったのかもしれません。
さまざまな場面においてジョリーは人との接し方を注意して(意識的に制御して)行っているようです。自分は「定型発達者」によって「定型発達者」のために設計された世界では「定型発達者」との違いを認識せざるを得ないとも感じ取れます。そしてジョリーはこの世界で自分らしく生きるために、意識的にポジティブに、笑顔でいるように心がけているよです。
「定型発達者」の感情的な言い方や議論は好きではないとのこと。その場にたいして議論に加わるよりも聞き役に徹する方がコミュニケーションはうまくいくとの考えです。このもとは大勢の言葉の認識がスムーズにいかないため対処策として編み出されたもののようですが、結果的にそれが円滑なコミュニケーションへの対策としてとらえることができます。
この一例のように自閉症であるジョリーからみる「定型発達者」の傾向を綴るような内容にもとらえられます。
「定型発達者」同士が常に円滑にコミュニケーションが取れるわけでもなく、「定型発達者」と自閉症のひととの境目はとても曖昧なものであると認識されます。つまり障がい者と「定型発達者」との境目もグラデーション的、もしくは全体的にぼやけたものに思われます。
小生は双極性障害の経験がありますが、思えば幼少期からあまり人になじめない、コミュニケーションが不得手なほうでしたから、「定型発達者」のカテゴリーには属さないのかもしれません。大人になってからは多少無理もしましたが、それなりに・無理ない範囲で生きていくこととしました(現時点は生きています)。
むしろジョリーのポジティブな精神は、それが意図的であれ(むしろ意図的だから称賛されるべきなのだろうか?)、「定型発達者」がはっとさせられる点かも知れません。ゆえにこの本が売れているという点にもつながるかもしれません。
本書の主人公はもちろんジョリー・フレミングでありますが、インタビュアー:リリック・ウィニックの仕事が大きいように感じます。彼女がジョリーに警戒心を抱かせることなく多くの言葉を発せられるように努めた結果をまとめた本のようにも感じました(訳者あとがきでは触れられていませんが)。
<所感>
本書原題は、「HOW TO BE HUMAN: An Autistic Man's Guide to Life」であり”いかにひととなるか: 自閉症男性による生きるためのガイド”の意味で、「普通」というニュアンスは含まれません。本書内では、自閉症に対して「定型発達者」という用語が使用されていますが、普通ということばは出てきません(言語の表現では"normal"になるのでしょうか?)。ちょっと原題の意味合いとはギャップがあるような気がします。
10章では(本書では[10 日本版附章「ジョリーは今」]表記)、訳者によるジョリーへの直接のインタビュー記録が付されています。YouTubeのリンクが記載されており、オンラインインタビューの様子が動画で見られるようになっています。動画と本書の10章の内容はほぼ同一です。その中で、相模原障害者施設殺傷事件(”障害者”表記は本書ママ)についてジョリーにコメントを求めています。彼は丁寧に質問に回答しています。訳者はこの事件に対してジョリーからどんな言葉を期待して質問したのでしょうか?おそらくに期待どおりの回答を得られたように思われますが、この附章をを加えたことと、その内容については原書に良い効果を加えられているようには感じませんでした。ジョリー・フレミング、リリック・ウィニック両著者の企図のままに読ませてもらってもよかったのではなないかと感じました。