『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(スティーヴン・グリーンブラット著、河野純治訳、柏書房)
読了日: 2024/5/15
ルクレティウスは、ギリシャ エピクロスの思想などに影響を受けて「物の本質について」を執筆しました。当時の著書は現代のようなページをめくる製本されたスタイルではなく、パピルスの巻物であったようです。当時の初期ローマ帝国は征服したギリシャ領土からの数多の知識と文化を享受(ギリシャ自体も近隣からの知識・文化を大いに吸収していた)し、次なる文化を醸成するに十全な環境にあったようです。
そして、ルクレティウスは(当然ながら)当時では科学的検証ができはしないが、世界が原子から生成されているのであるから(専門用語を嫌ったルクレティウスは「万物は目に見えない粒子でできている。」とあらわしていた (p.231))、事物の生成根拠も人間の存在も差異はなく、死後の裁判により魂の次の拠りどころが左右されるなどとは考えもしなかったことは、文脈的に行きつくであろう理念に辿りついていたということのようです。
彼の生きたポンペイは、79年のヴェスヴィオス噴火にのみこまれ、著書は火砕流の地層の下に埋められ、永らくポンペイ自体が知られることはありませんでした。
アレクサンドリアの図書館がイスラム勢力に奪還され、ゆえにその長時間の知識の宝物は持ち帰られた(であろう)中東世界で大いに研究され、発展させられ、温存され、いずれ西欧世界にフィードバックされることとなった。歴史に’もしも’はない前提としても、313年ミラノ勅令後のキリスト教勢力のもとのローマ帝国占領下では焚書坑儒によりほぼすべての思想と科学、文学などは失われていたはずで、現代が存在しない、あるいはまったく別の世界になっていたであろうことは疑い難い。(この背景は『フェルマーの最終定理』(新潮文庫)のドラマ性のひとつとして記憶しています)
ローマ教皇秘書として務める傍ら人文主義者でもあるポッジョ・ブラッチョリーニブックハントするために各地に赴き、古代ローマ・ギリシャ時代の執筆を写本されたものを探し回っていたらしい。前述のパピルスに記載された叙述を羊皮紙に写し書き、中世の学問の場であった修道院に収蔵されていたものの中から逸品を狙い、めぐっていたようです。そして、タイトルの示すとおり1417年にルクレティウスの『物の本質について』を発見するに至る(ブラッチョリーニはキケロ、ウェルギリウスなどをとおしてルクレティウスの『物の本質について』の存在を知っていた)、というのが前半部でした。
中盤以降は、エピクロス主義を含む古代ローマ・ギリシャ時代の自由な思想で発展していた思想や科学が、その後(キリスト教国教化以降)、自由が奪われ弾圧される約1000年間の展開が記されます。暗黒の1000年間は宗教としてのキリスト教や聖書に問題があるとするものではなく、その運営組織(教皇庁、修道会、および付帯する権威など)に起因するものと考えられます。
ルクレティウスは先人エピクロス派の影響がみられ(本書は”多神教の時代”とあらわしています)、『物の本質について』も永らく世に出回ることはなかったようです。
原子論や幸福論など『物の本質について』の内容が世界を変えたというほどではなく、その自由思想がルネサンス、宗教改革のなかで影響を与えた一冊になったようです。
本書は『規則より思いやりが大事な場所で』(カルロ・ロヴェッリ著、富永星訳、NHK出版)から知りました。ルクレティウスを知らなかったので、参照しながら読もうと思い『物の本質について』(樋口勝彦訳、岩波文庫)を購入しましたが、本書を通読するのは困難そうで購入しなくてもよかったです…。
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