「協調性がない」ことを悲観的に捉える文化
「あいつ、協調性ないよな」
協調性という言葉は、人のことを考える行動ができているか、できていないかの指標としてよく使われている。
「あいつは人のことを考えた発言をしない、協調性がない」
協調性がないと聞くと、多くの人がネガティブに捉えてしまうだろう。(実際はないのではなく「低い」という表現が正しいが)
しかし、それは本当にそうなのだろうか。
人に備わる性質は、何か意味があって備わっている場合が多い。協調性の高さや低さも、その類に含まれないだろうか。
協調性が低いことによるプラス要因、いや、それ以上に協調性が高いことによる弊害を考えることで、もう少し、協調性が低い人に対して寛容に、適度な心の持ちようで接することはできないだろうか。
それは相手のためだけでなく、自分の心を豊かにする上でも、大切な捉え方であるように思う。そんなことを考えながら、とある面白い心理実験ついて書いてみたい。
最後通牒ゲームと性格特性
最後通牒ゲームというものが、とある心理学本に書かれていいた。ある条件下で、人間はどのような振る舞いをするのか、ということを実験したものだ。
わかりやすいように本質だけ抽出してゲーム内容について記載すると、以下のようなものだ。
簡単に書くと、上記のようなものだ。例えば、Aさんが「俺が8000円もらう」と決めると、Bさんはそれを受け入れて残りの2000円もらうか、その条件を拒否するかを選択できる。
拒否をすると、AさんもBさんも1円ももらえず、そのゲームは終了する。これを何回も繰り返して、Aさんの立場、Bさんの立場で人がどのような振る舞いをするかを見る実験だ。
Aさんの立場では、あまりに理不尽な要求をすると拒否される恐れがある。一方で、Bさんの立場は拒否をすると1円も貰えないため、拒否するメリットがほとんどない。
1円でももらえる場合と、1円も貰えない場合でどちらを選択するか、とすると答えは明白だからだ。
そのため、Bさんの立場で拒否をする理由として考えられるのは、自分の持ち分が犠牲になってでも、相手に制裁を加えたい、という心理である。自分の持ち分を多くするという合理性だけで考えたら、拒否権を発動する理由がないからだ。
そして、この実験をスタートすると、しばらくして拒否権を発動する人が出てくる。この実験の面白いところは、この拒否権を発動した人たちの性格特性だ。
事前に行った性格診断によると、この拒否権を発動する回数や人数と、協調性の高さに相関がみられたのだ。
おおらかな心持ちで見逃せる文化
協調性が高いということは、平等性を重んじる傾向にあるとも捉えることができる。それは、一方からすれば良いものと捉えることができるが、それによって自己犠牲をしたり、実態とは関係のない不平等性を感じて相手の足を引っ張ったりすることも考えられる。
協調性の高さは、組織全体でみると時と場合によってはマイナスな要因となったり、自分自身の幸福度に悪影響を与える因子となる可能性がある。
協調性が低いという性格特性も、「足が遅い」「声が低い」と同じように、単なるその人の一要素としておおらかに捉えることができれば、もう少し生きやすくなるのではないだろうか。
協調性を強要したり、受け入れられないとして排除するのではなく、ひとつの個性として、ある程度のことは「そういう人もいる」と見逃せる文化が、日本にはもう少し必要な気がしている。