タイムリミット
時間。時間。時間。
時は存在しないとぬかしていた科学者がいたような気がするが、現代においても時間は殆どの人にとってかけがえのない存在として丁重に扱われている。
特に休日。人によっては年に三日しか与えられない、天から遣わされた貴重な施しを有効活用することに市井の人々は心を砕く。憑りつかれていると言っても過言ではない。
何を隠そう私もその一人。久々に取得した休暇を活用し、特急列車で一路黒海の避暑地を目指す途上にある。一応の目的は観光地でのバカンスだが……物見遊山で休日を終わらせるほど、私の人生は暇ではない。
人間には、大事にすべき時が二つある。
一つには休日、もう一つには……
婚期だ。
「――あの……サーシャさん?」
特急モスクワ、朝食真っ最中の食堂車。怒りを抑え付けようと内心奮闘していた私、サーシャ=クロイツェフは視線を上げると、顔色を窺ってくるボーイフレンドに人畜無害な笑みで応じた。
「ど、どうかした? ボッシュ」
「いや……いつも可愛らしい顔が、今日は彫刻みたいに強張っているからね……」
「そ、そう? 嫌だわ、昨日飲み過ぎたのね」
口元を隠して笑いで貞淑な淑女を気取って見せる。ボッシュは彫刻みたいな、と控えめな例えで言ってくれたが、ゴヤのサトゥルヌスと言ってもいい表情だったはずだ。
「ちょっとよろしいかしら? 失礼」
「付き添うよ」
「いいえ結構、すぐ戻ります」
「あ、ああ……うん。すぐ、だと良いけど……」
不安そうにしている彼をおいて、トイレまでの道を小走りに急いだ。
心配性な彼が、私の不機嫌の理由を誰に見出したかは聞かずとも分かるが、それは見当違いも甚だしい。事実、それまで二人は黒海を臨むホテルでの甘い一時について囁き合っていたのだから。
ドアを開いて体を滑り込ませて素早く鍵をかける。列車の中で最もプライバシーが保たれる空間に辿り着いた私は、不機嫌の元凶をオフショルダードレスの胸元から引きずり出した。
白い絹の手袋の指に包まれ出てきたそれは、卵ほどのサイズの際限なく振動しているペンダントである。まさにこの、一見ただのジョークグッズみたいな存在こそが私の怒りの源流であり、私は壁にぶつけたい衝動を抑えてペンダントの起動スイッチを入れた。
『ああ、良かった。繋がったか――』
見知った声が聞こえた途端、衝動でスイッチをオフにしてしまう。
やっぱりだ。せめて間違え電話であればと思ったが、この分だと間違いどころか大本命で確定だろう。沈む心を奮わせ、もう一度スイッチを入れる。
『なぜ今切った! ふざけている場合じゃない一大事だ!』
見知った声が今度は大ボリュームで危急を告げる。外に誰も居ないことを確認しつつ、私は小声で応答した。
「課長、外に聞こえます」
『私か? 今の私が悪いのか? 緊急の案件をわざわざ伝えてやろうと連絡した私が?』
「非番の人間にとって上司とは須らく悪鬼羅刹の類であります」
『ふん。我々に休日などあってないようなもの。貴様もKGBの職員ならば、休みの一日二日潰れたくらいで文句を言うな』
はぁ~、と聞こえないよう溜息をもらすのは難儀だった。
KGB。ここロシアでは言わずと知れた諜報機関だ。壁に生える耳と目。狙った獲物はシベリアの奥地へでも追い詰める赤い猟犬。兵隊の休日を容赦なく取り上げる労働者の敵。それが私の職場だ。
特に課長はツェーカー、スターリンの粛清時代から諜報員をしている老人で、高給と公務員に引かれてきた私のような半端者には厳しいのだ。曰く、五十人殺したくらいで臆せぬ精神を持て、泣いたり笑ったり出来なくなれがモットーの、訓練士官みたいな爺さんだ。
しかし戦前の、一瞬の気のゆるみで収容所送りになる日々ならともかく、密告より賄賂が出世に繋がる現代ロシアでは息が詰まりそうな考えだ。今日は爺さんから距離を置いて、人間らしい精神を取り戻そうと思っていたのに……!
『おい、話を聞いているのか。それとも職務放棄で人民裁判が望みなのか』
「聞いてますよぉ……返事をする気力がないだけです。それで一体、何が一大事なんです? 今すぐモスクワに戻れと言われても、もうクリミアの入口が見える頃なんですが」
『それには及ばん、仕事場はその列車の中だ』
「列車の……?」
ああ、と課長が無線越しに頷くのが聞こえた。
『地元の民族主義者が列車を狙ったテロを実行中とのことだ。賊は機関車に二人、それなりに武装もしている。貴様の任務は賊の制圧と、列車の安全を守ることだ』
「はい? そんな話、休暇前には一度も――」
途中まで言った私は、思い当たる節が浮かんできて言葉を切った。
ああ、そう言えば黒海に行くと爺さんに話した時、テロリスト共が騒がしいから別な所にしとけと確かに忠告を受けた。
「でも奴らが狙うのはもっと上位の、共産党員しか乗れないような列車でしょう。私が乗ってるのは大衆向けですよ」
『うん、連中もそのつもりだったようだが……』
「だが?」
『どうも乗る列車を間違えたらしい』
「め、迷惑な……」
これだから田舎者は。
だがしかし、このサーシャ・クロイツェフには夢がある。何人にも邪魔されず、朝日を拝むその時まで休暇に勤しむというささやかな夢が。
国営企業に勤務する若きエリートと添い遂げて、この危険で薄給な諜報員を辞めるというしたたかな野望がある。
テロリストのうっかりで、五年の執念を費やした計画を不意にして堪るか!
「大体、未然に予測していた犯行なら担当がいるでしょう。誰ですか担当者は」
『……ミハイル君だ』
「ミハイル……」
ミハイル君は私の上司の上司のさらに上の上司の息子である。そして大人の男が君付けで呼ばれると来れば、要するに……まあ……そんな感じの人物だ。
『彼は……現地の警察五十名を連れてテロリスト共を追跡した。連中が乗り込む駅を突き止めたのは彼の功績だ』
「その不出来な生徒を途中過程で褒めるみたいなの止めて下さい。私がミスしたら殴る蹴るだったくせに、なに日和ってんです」
『貴様とは立場が違うのだ! ……意気込んで、列車に飛び乗ったまでは良かった……』
「それで?」
『乗る列車を間違えてな……目下、モスクワへの帰路についている』
「クソが……!」
魂の呻きを漏らして、思わず殴りつけたシンクに新しいひび割れが生じた。
これだからボンボンは。何でどいつもこいつも列車一つまともに乗れないんだ。ミハイル、お前が不始末で私を苦しめたのはこれで何度目だと思ってる! 密告で一族郎党カザフ送りにしてやろうか! バイコヌールでロケット燃料の運搬係でもするがいい!
『暴れて気は晴れたか? そろそろまじめに仕事に取り掛かった方が良いぞ』
落ち着くわけがないだろ、何を言っているこの耄碌爺は。
思いの丈を吐露しそうになるのをグッと我慢して、私は未だ駄々をこねる本能に必死に言い聞かせた。
釈然としないが、爺さんが言ってることも尤もだ。このままテロリストを放置していては、私の旅の行く先が黒海から天国に変わるのは必然。結婚して未来の社長夫人の夢は当然絶たれる。釈然としないが、誰かが、私が、始末しなければ……! 釈然としないが。
怒りのあまり歯を食いしばった口を無理やり笑顔に変える。訓練生時代を思い出し、本能を宥めて理性に体を支配させようと試みた。少しずつ、不器用な笑顔は冷徹な微笑みに変えて、私は、果たすべき責務を――
「イヤです」
清々しく、拒否した。
抑えきれなかった本能が告げた本音に、課長が息を呑むのが聞こえた。今浮かべている朗らかな笑みを見られたら、頭蓋を灰皿で叩き割られただろう。
『……私を怒らせて楽しいか? 貴様――!』
「爺さんをおちょくる趣味はないわ! イヤだからイヤだって言ってんですよ!」
怒涛の勢いで本音をぶちまける声音は、半分泣いていた。
「スターリンLOVEの課長は知りませんけどね、普通の人間は休みがなきゃ死んじゃうんですよ?! 分かってますか! 私がこの休みを得るために四ヶ月どれだけの苦労をしたか! 生垣で藪蚊に刺されながら写真撮って、中年オッサンにケツ揉まれて、ソイツの死体をばれないように片付けて入れ替わりのスパイにオッサンの仕草を叩き込んで! やっと得た休みでどうして、ちんけなテロリストなんて相手にしなきゃ……」
『……』
「それと、ボッシュ! 彼がいるところで仕事なんかして、私の正体がばれたらどうするんです! 彼、気が弱いんですよ……」
『だ、だから?』
「KGBなんて危ない所に勤めてる女と結婚してくれるわけがない! あぁー! 折角見つけたイケメンでエリートな好青年がぁぁ!」
『落ち着け……エリートならウチにもたくさんいるだろう』
「……例えば?」
『ミハイル君』
「ミハイルはもう良いよ!」
コンコン、とトイレのドアをノックする音。ひとしきり喚いて疲れた私は、大丈夫と還すのも忘れて息を整えた。ペンダントから聞こえる課長が息を呑む音は、さっきの怒りにみちたものから同情を感じさせるものに変わった。
『貴様……よくKGBに入れたな』
「シベリアの片田舎を出るためなら、何だってする覚悟でしたから……」
『その頑張りを、ここで不意にすることはあるまい』
課長の言わんとすることは、十分に理解している。
でも疲れたんだよぉ! 順調な結婚計画を不意にしたくないんだよぉ!
「……私今、持ってる武器ペン型麻酔銃だけですけど……」
『狭い車内だ。素人相手なら素手で十分だろう』
「バックアップの人員は? まさかミハイルだけで行かせたわけじゃないでしょう?」
『ミハイル君が無事列車に乗ったと聞いて、気が緩んだらしくてな……』
「それを引き締めるのが課長の仕事でしょ!」
『私だって……こんなミスは初めてだ……!』
それはそう。そこだけは課長に同情した。
「あぁー、もう! 分かりましたよ、私がやれば良いんですね」
『やってくれるか……標的は機関車に爆弾を仕掛ける計画のようだ。すぐに向かってくれ』
「はいはい」
『頼むぞ。これが成功したら貴様を私の後任に推薦してやる』
それだけはマジで御免だ。思いながら私はトイレのドアを開け放つ。疑いの眼差しを向ける車掌が出口のすぐ前に立っていた。
「イズヴィニーチェ(すみません)、奥様――」
有無を言わさず麻酔銃を発射。空気が漏れる小さな音がして、油断していた車掌はその場に崩れ落ちる。急いでトイレに引きずり込み、服を奪い取った。男にしては小柄で背格好が似ていたのは幸運だった。
「って、何が幸運なもんですか」
すっかり仕事モードに入った自分に辟易しつつ、テロリストがいる機関車を目指す。
問題なのは、途中の食堂車にボッシュがまだいるという事だ。まだテーブルで大人しく私を待ってる彼にバレないよう、帽子で顔を隠しながら横を通った。
横目に様子を窺う。一瞥をくれるがそれ以上反応のない彼を見て、私は胸を撫で下ろしながら先頭客車まで進んだ。
そこから先は、外だ。
「ミハイル……ボンボンでなきゃ殺してやるのに……!」
呪詛を述べつつ、石炭車の上を這いつくばって進む。
よぅし、この怒りは私の休日を不意にしやがったテロリストにぶつけてやろう。手が黒くなるのも構わず手頃な石炭を握り締めると、機関車の運転台へと豹のように姿勢を低くしながら迫った。
居た。二人、足元に縛られた機関士と機関助手。獲物は短機関銃と拳銃、大祖国戦争時代の骨董品を持ったコートの二人組だった。
迷わず、機関銃を持った賊の鼻っ柱めがけ石炭を投げつける。
音もなく鼻をへし折られ気絶した賊は頭から地面に落下した。
「っ! おい!」
残りが気を取られた隙に一気に距離を詰める。
賊が此方に気がつく。だがその銃口を向ける前に、私が放った飛び蹴りは賊の無防備な顎を捉えていた。
足越しに伝わる鈍い感触。顎を砕かれた賊がその場に崩れ落ちる。仕返しには足りないがまあ、上出来だろう。そのまま運転台に乗り込んで、青ざめた顔をしている機関士に尋ねた。
「爆弾は?」
「そ、ソイツのコートの中……!」
気絶した間抜けのコートを漁ると、ダイナマイトに信管を取り付けたシンプルな爆弾を見つけた。全く、手間をかけさせる……!
ダクトテープで頑丈に括りつけられそれを無理やり引き剥がし、信管を車外にぶん投げる。ダイナマイトは……管理が面倒だな。休暇を不意にしたくない。
面倒くさくなった私は、怯えた様子の機関士に向き直った。
「ダイナマイトはそっちで管理しろ。次の駅に着いたら警察に賊と一緒に渡せ」
「そんな! あ、あんたがやってくれよ」
「口答えが趣味なのか? 私を怒らせて流刑地に送られたくなかったら、素直に従うことだ。百貨店『子供の世界』のお隣が何とかしたと警察に言えば、あとは何とかしてくれる。いいからこれを持ってろ!」
あ~あ、脅し文句が誰かさんに似てるなぁ、と自分の発言に嫌気しつつ、私はまた石炭車の上を風に吹かれながら引き返した。
時計を確かめた。トイレに入ってから二十分程度の経過だ。地獄の残業が短時間で終わった事を神に感謝しつつ、トイレまで戻った私はウキウキで身支度を整えだした。
やった。もうこれで爺さんの不機嫌な声を聞かなくて済む。あとは終点に着くまで何も考えず、いやボッシュに眉をひそめられない程度に、羽根を伸ばして一等車のサービスを楽しむだけだ。
ハッハッハ、馬鹿なテロリストどもめ。お前達もまじめに勉強して就職すればこの享楽を味わえただろうに。下々に対する余裕を取り戻した私は、意気揚々とボーイフレンドの待つ食堂車に戻った。
「ごめんなさい、すっかり待たせちゃって。お腹空いた……でしょ」
だが取り戻した筈の余裕は、一瞬にして吹き飛んでしまった。
ボッシュ。我が愛しきボーイフレンドよ。どうしてそうあからさまに顔を逸らすんだい? いや確かに、そういうシャイな所も好きだし、何ならメッチャ言う事聞いてくれそうみたいな打算で付き合ってるところもあるにはあるけど。
今そうじゃないだろ? 体調悪い彼女が戻ってきたんだから、君がやるべきなのはねぎらいであって腫物の如く避ける事じゃない。そうだろ?
機関車の上では冷や汗一つかかなかった背中が、今や滝汗で濡れていた。
何かが、おかしい。フリーズしていた私は先手を取られた。
「車掌に……会わなかったかい?」
車掌? ああ、今トイレでぐっすり眠りこけてる奴か?
まさか本当のことを告げる訳にもいかず、私は首を横に振るにとどめた。
「……見てない」
「そうか。僕が、様子を見てくるよう頼んだんだ。で、様子を伝えてくれるよう言った」
「ふう、ん」
「でも車掌は戻ってこなくて、変わりに――」
そこで言葉を切ったボッシュも、顔中冷や汗で酷いことになっていた。言いづらそうな言葉を喉の奥から絞り出すように、喘ぎ喘ぎ言葉を繰り出す。
「しゃ……車掌服を着た君が来た。それも、すごい殺気を漂わせて。そ、それから、今僕の前に何時もの君が座ってる。さっき見たものが……嘘だったみたいに」
汗をたくさんかいている筈なのに、夏の車内はひどく寒く感じた。
何たるミス。数々の不祥事にかまけて、殺気を殺すのを完全に失念していた。
でもしょうがないじゃん! ミハイルのやつムカつくんだもん!
顔から血の気が引いていくのを感じていた。回らない頭を必死に捻る。
何か言い訳を。何か何か何か!
「……前にも、思い当たる節があった」
ボッシュが先に切り出された私は敗北を覚悟した。
頭の芯が急速に冷えていって、今やるべきことを正確に整理する。
胸元には、弾の込められたペン型麻酔銃。バレずに取り出すのは造作もない。
「何度か、君の姿突然消えたと思ったら……泊ってたホテルとか観光地でテロリストが捕まったってニュースになって……君はその話を嫌がって……」
目の前の標的は、机に視線を落として独り言をいうのに夢中だ。
「最初は……血生臭い話が嫌いなんだと思ったけどやっぱり、こうも宿泊先で事件が起き続けるのは、変だ。忙しい忙しいって君は言うけど、何の仕事かさっぱり教えてくれない」
胸をさする仕草でそれとなく麻酔銃を取り出す。腕をテーブルの下に。
「教えてくれない、教えられない職業だとしたら……テロリストに絡む仕事とくれば――」
標的の足に狙いを付ける。ピン止めに偽装した引き金に指を置いた。
「君の仕事って――」
ガバッと、標的が怯えた目をテーブルから上げる。
「まさかKG――!」
撃つ。僅かな音と共に発射された、麻酔薬仕込みの矢が標的の足に刺さり、標的はすぐさま昏倒した。
周囲を見渡す。彼が言いかけた言葉を、聞き遂げた者はいない。
冷え固まった表情を、女が恋人に向けるものへと瞬時に変えた。
「あ、あらぁ。ボッシュったら、あなたも飲み過ぎよ♪」
若干引きつった笑顔を浮かべながら、彼を抱えて席を立つ。手を貸そうとボーイが手を伸ばしてくるが、それを笑顔一つで回避する。
「いいえ結構。それよりお皿さげといてくださる?」
そのまま一目散に部屋を目指して走り、眠りこけているボッシュをベッドに寝かせた。
急いでドアを閉め、施錠。理性の限界を迎えたところで両の拳を、締めたドアに思いっきり叩き付けた。
「あああああああぁぁ! バレたぁぁぁぁぁぁぁ!」
絶望。慟哭と凄まじい量の涙を垂れ流しにしながら、私は今まで味わった事の無い絶望の淵に立たされていた。
そうだ、そうだよ。旅行の度に姿消してちゃバレるわ。それもこれも課長が便利屋みたいに私をこき使うから……やっぱりあの爺さんが一番嫌いだぁ!
何とか慟哭を嗚咽レベルに抑えて、私は今後の事に頭をひねった。
もう、無垢なキャリアウーマンのふりは通用しない。それどころか駅に着いた途端三下り半を叩き付けられる恐れすらある。
というかほかの選択肢がないよ! 無傷ならまだしも手にかけちゃったし! 長年積み上げた信頼がパーだ、パー!
殺す。あの爺さん、次あったら必ず殺す! 無意味な誓いを立てたあたりで、私の鍛え抜かれた精神は露骨に平静を取り戻していく。怒りが冷めると胸中に広がるのは、広大な虚無の空間だった。
馬鹿馬鹿しい。何が諜報機関だ、ソビエトなんぞ糞くらえ。
投げやりになっている私の眼に飛び込むのは、今や何の価値も無くなったボッシュ――
「……あ?」
その、股間がいきり立っている。
何だこりゃ、何で一人で盛り上がってるんだ? と首をひねったが思い出した。課長が言っていた、ペン型麻酔銃に使われる麻酔は良い夢が見られると。私に誤射された時に言っていたのを思い出した。
それと同時に、ある一つの閃きが浮かぶ。
正体を知ったとは言え、ボッシュはこれ以上ない位の優良株だ。失うのは惜しい。
しかしKGB職員と結婚するほど彼の肝は太くない。
でも事情を説明する必要もなく、言う事も聞かせやすい。
そんな男を手に入れるにはどうする?
「ま、既成事実作っちゃうのが一番早いか」
開き直った私は機を逃す前にと、無防備なボーイフレンドのズボンを脱がしにかかった。