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SNS社会における自分らしさとは。「つながり過ぎない価値」を考える|舞台『SHELL』

ネクストブレーク女優の筆頭格・秋田汐梨を間近で観たくてKAATまで足を運んだ。学園モノということもあって秋田以外にも多数の若手俳優が出演しており、次世代俳優の掘り起こしがライフワークの自分にとっては出演キャストを眺めるだけで大変有意義だった。

『SHELL』は、一言で言えば名門学園を舞台にした青春ファンタジーだ。石井杏奈演じる希穂と秋田汐梨演じる未羽の二人を中心に物語が展開される。担任教師の突然の失踪から物語は始まり、失踪の原因を探る過程で少しずつ希穂の特異性があらわになっていく。実は希穂は、女子高生としての人生を生きながら、一方で全く知らない二人の他者(高木という中年男性と、長谷川という独居老人)の人生も生きているのだ。実際、二人の他者は別々の俳優が演じている。彼らは、自身の別の人生のことを「絶対他者」と呼んでいるらしい。絶対他者を持つ人間は希穂以外にも存在するようなのだが、普通の人間がそれを認識することはない。しかし、友人の未羽だけが希穂の特異性に気づき、その不可解さに向き合おうとする。決して交わるはずのない希穂・高木・長谷川の人生が、未羽という結節点を中心に少しずつ接点を持ち始め、これまでの均衡が大きく崩れ始める。

本作は「貌(かたち)」をテーマにした作品であると脚本家の倉持裕も語っており、希穂はまさしく他者の姿に形を変える。舞台装飾がすべてグリーンバックのような鮮やかな緑色になっているのが印象的で、あたかも世界はすべて投影されたものだと言わんばかりの演出も、ある意味テーマに忠実だった。とはいえ、希穂の謎が劇中で紐解かれることはなく、あくまでその解釈は観客に委ねられる。私見ではあるが、舞台『SHELL』は、SNS社会における「らしさ」と「つながり」について鋭い投げかけを行っているように思う。

人は他者とのつながりにおいて自己を確認する。だが、他者のフィードバックが行き過ぎると、かえって自分らしさを見失ってしまう。特にSNSにおいては、誰もが他者の目線を強く内面化していて、常に他人から見られる自分を意識せざるを得ない。ちなみに劇中では、ほぼすべてのシーンで希穂と未羽のクラスメイトが無言で話者にまとわりつくような演出がなされる。「お前を常に監視しているぞ」と言わんばかりの気持ち悪さが終始へばりついていた。

また、つながりが過剰になると、そこにはあらゆることを関係づけようとする圧力が働く。自分とはおよそ関わりのない事柄さえも、周りの目を気にしてどこか触れなければならない空気がSNSにはたしかに存在しており、それが自分らしさをいっそう覆い隠してしまう。劇中でも、本来つながるはずのなかった人物や事柄が未羽を通して思いがけずつながってしまい、最終的に希穂は自分を失ってしまうのだった。絶対他者を持つ登場人物の一人は、未羽のように物事を関係づけようとする人間を「ウイルス」とさえ呼んでいた。

つまり、自分らしく生きるためには、つながりの過不足を調整しなければならないわけだ。過不足とは言っても、いまの社会は明らかに過剰の域に傾いているため、いかに"つながり過ぎないか"がポイントになるだろう。

その点に関して、希穂の存在は一つのヒントになるかもしれない。絶対他者という、絶対に交わらない他者を抱えて生きている彼女は、皮肉にも劇中で最も自分を持っている人物だった。つながらないことが、彼女らしさを担保しているように見えた。反対に、良くも悪くも他者とのつながりを意識して生きる未羽は、一見華のあるクラスの人気者ではあるが、どこかに寄る辺なさを滲ませていた。未羽の「らしさ」を巡る葛藤が、先述の教師失踪や、舞台終盤の見せ場であるクラス集会に繋がっていくことを考えると、この舞台のテーマである「貌」は、「自分らしいかたち」と言い換えられるかもしれない。

思うに、自分らしく生きるということは、与り知れない他者として自己を生きることではないだろうか。外部からの安易なフィードバックによってわかった気になるのではなく、底知れない未知の存在として自己を見つめる中に、本当の自分らしさが立ち上がる。それはきっと心地よい体験ではないだろう。なぜならば、本来コントロール可能な存在と思い込んでいる自分自身が、実は計り知れないアンコントロールな存在だと認めなければならないからだ。

稲田豊史氏の「映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形」によれば、今の若者たちは感情の起伏を極端に恐れており、だから映画の内容を事前に把握しておきたいらしい。感情の揺さぶりによって知らない自分に出会うことを恐れる彼らは、自己にさえネタバレを要求しているかのようだ。そもそも映画を早送りで観る大きな理由は、友人と話を合わせるために概要をキャッチアップしたいかららしいが、それによってどんなに友人の輪に入ろうが、結局人間は孤独なのだ。最後は自分という他人と向き合う以外にない。だから瞑想をしろとは言わないが、せめて舞台や映画といったフィクションが、少しでも自分のわからなさに思いを巡らすきっかけになれば良いと思う。フィクションを話題に友人とつながるのではなく、フィクションの投げかけを自分の内側に接続すること。きっとそれが、"つながり過ぎ"への一つの処方箋になるだろう。


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